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[才市] 心で 参るじゃない
旧ブログ 2011年9月 4日 (日)

こころで まいるじゃない
しんじんに こころとられて まいること
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』, p.42)

 前回の記事ですが,誤解のタネを撒き散らしているというか,突っ込みどころ満載ですね.突っ込まれる前に,自分で突っ込みいれときます(^^;).

1. 才市さんの「忘れんで [お浄土に]参るでなし」は“私の信心でお浄土に参るでなし”ということでしょう
--- 如来様から私がたまわった信心で往生するんだろ.それを信心でお浄土に参るでなしだなんて・・・.信心って言葉を誤解してない?

 ごもっとも.ここで「私の信心」といったのは,“私が信心と思い込んでいるもの”ということです.常に阿弥陀さまのことを思って忘れることがないとか,澄み渡って動じることがない心の状態とか,そんなものが“信心”で,それによって往生すると勝手に思い込んでいる.そういう私の思い違いによる信心を「私の信心」と言ったつもりでした.でも,言葉足らずだったかもしれません.それに,「信心」という大切な言葉を,誤用の例としてであっても,違う意味で使うのはできるだけ避けた方がいいですね.
 ここで,今回の才市さんの口あいを見ると,「こころで まいるじゃない しんじんに こころとられて まいること」と歌われています.最初からあっさりこう言えばよかったのです.やれやれ・・・.

2. “信心で救われて,お念仏で感謝する”自体は間違いとは言い切れません
--- 「信心正因,称名報恩」が真宗だろ.それを「間違いとは言い切れません」ってどういうことだ.

 これは,いくらなんでも,ちょっと言葉が過ぎたので「間違いではない」と本文を訂正しました.「信心正因,称名報恩」さえも,間違った思い込みを正当化するように聞いてしまうことがあると言いたかったのです.
 たとえば:1) 信心一つで往生するのであってお念仏はお礼である,2) お礼を言わないのは道徳に反するが,道徳を守って往生するわけではない,3) したがって,お念仏なんてどうでもいい.
 これは(浄土真宗では)間違いですが,一応,筋は通ってますよね.こう思い込んでいる人を理屈で説得するのは難しい.まあ,ここまで極端な主張は見たことがありませんが,そっちへ流れそうな話はときどき目にします(私自身,ちょくちょく,そっちに引っ張られる^^;).
 信心と称名を切り離すのが間違いですが,その根本には,信心や称名を我が物にしていること,つまり,自分の側からだけ見ているという間違いがあるように思えます.次の説明の後半だけを見て,前半を無視しているということです.

「乃至十念」の称名は、その体徳からいえば、名号の全現ですから一声一声が正定業(まさしく往生の決定する業因)であります。しかし、これを称える行者の用心をいえば、ご恩尊や有難やと感謝する思いから称える報恩の念仏であります。
(灘本愛慈)


【補足】
灘本愛慈:『やさしい 安心論題の話』の「(15)十念誓意 」.引用はこちらからお借りしました.

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