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[才市] ねんぶつとなえて まいるでなし
旧ブログ 2011年9月 3日 (土)

さいちは
ねんぶつとなえて まいるでなし
わすれんで まいるでなし
ほとけに だきとられてまいること
(『ご恩うれしや』,pp.189--190)

 「お念仏一つで救われる」とよく言われますが,この言葉は誤解されやすい言葉です.お念仏を呪文のように思ってしまう.
 しかし,誤解していると決め付けて,“お念仏一つで救われるなんてウソだ,信心一つで救われるのだ”と強調すると,また別の誤解に落ち込んでしまいます.“私が正しく理解したから救われる”と.現代人はこちらに傾きそうな気がします.そして,頭で理解しようとして惑い,“救われようのない自分の心”を見つめて苦しむ.これは,自分の理解力や心の状態に頼ろうとして苦しんでいるわけで,そういう苦しみから救ってくれるのが,「お念仏一つで救われる」なのですが・・・.
 「信心一つ」も「お念仏一つ」もそれ自体は正しいのですが,これを二者択一にすると間違いです.才市さんの「忘れんでまいるでなし」は“私の信心でお浄土に参るでなし”ということでしょうから,この口あいでは,「お念仏一つ」も「信心一つ」もあっさり否定された形になっています.しかし,ここで否定されているのは二者択一的に一方に固執することです.“お念仏は一回か,たくさんか”と二者択一を迫るのと同じで,そこには自力の心が潜んでいる.そうではなくて,「ほとけに だきとられてまいること」ですね・・・なんて議論も「ちくらが沖」行きかな?

【補足】
 法然上人に“念仏が信心を妨げる”あるいは逆に“信心が念仏を妨げる”という意味のお言葉があるそうです(未確認です.どなたか,出典をご存知でしたら教えてください).念仏と信心とを対立させて,一方に偏執することを戒めた言葉でしょう.
 なお,『歎異鈔』第11条で論じられていることも,まったく同じではありませんが,間違い方が良く似ていますね.

 信心に固執する間違いに陥ると,「ご恩報謝のお念仏」も誤解に拍車をかけるだけで終わるようです.“信心で救われて,お念仏で感謝する”と.あ,いや,“信心で救われて,お念仏で感謝する”自体は間違いとは言い切れませんではないのですが,そう言って信心とお念仏を切り離しているように聞こえる議論を目にすることがあります.

 この記事をupする前に少し手を入れようと「お念仏一つ」で検索をかけたところ,浅井成海師の悪口を言っているサイトに行き当たってしまいました.なお悪いことには,そのサイト,私のトラウマ(^^;;)に関わりがあるようで・・・.その内容は,何と言うか,一度ボタンを掛け違うとどこまでいっても違ったままという感じです.でも,この誤解に対しどう言えばいいのか? 正直,言うべき言葉を持ちません.
 私の記事は,そのサイトへの反論として書いたものではありませんし,反論する気もありません(したがってリンクも張りません).ただ,書き直しをしているときに,そのサイトの議論が頭のなかでチラチラしていたため,ちょっと分かりにくくなったような気もします(第2段落が書き直したところです).そんなサイト,あっさり忘れてしまえばいいのにね(>自分).

追記:上の見消の部分,ちょっと言い過ぎたので訂正(2011.9.3 20:33)

コメント

続けてコメントさせていただきます。
まず質問 「ちくらが沖」 の意味がわかりません、教えてくださいな・・
お念仏は電車の切符のようなものだと聞いたことがあります。もちろん
手段とか方法という意味ではなく、電車に乗るときは切符が必要だけれど
切符だけが電車に乗っていく訳ではなく、この身も一緒について乗って行くと言うことです。もっとも最近は(特に大谷派は)切符も持たずに乗ろうとしている人が多くなりました。本山なども念仏という文言をあまり使わなくなりましたね。お西の「念仏の声を 世界に 子や孫に」というのが気に入っていたのですが、新しいものは いのち という言葉の入ったものに変わって
しまいましたね。日本中 いのち という言葉が大流行しているようです、
いのち って一体何だろう?

 つづけて,こんばんは.

 「ちくらが沖」失礼しました.つぎの一茶の文に出ていることばで, “無用の理屈の捨て場所” くらいの意味です.

 他力信心/\と一向に他力にちからを入れて頼み込み候輩は、つひに他力繩に縛れて、自力地獄の炎の中へほたんとおち入候・・・たゞ自力他力何のかのいふ芥もくたを、さらりとちくらが沖へ流して、・・・あなたさまの御はからひ次第あそばされくださりませ・・・(一茶 『おらが春』.『蕪村集 一茶集』(日本古典文学体系 58. 岩波書店, 1978)の p.476)

 この文,非常に印象的だったので,しょうもない議論が頭のなかで渦巻いているときなど,「ちくらが沖行き!」って自分で(頭のなかで)叫んでみたりします.つい,そのクセがでました・・・

 「いのち」が流行するのは,それだけ,命が軽くなっているためでしょうか.「今,いのちがあなたを生きている」という標語はけっこう好きなのですが,ただ,「いのち」の連呼に危惧を感じるところはあります.「いのちが一番大切だと思っていたころ/生きるのが苦しかった」(星野富弘)ということになりはしないかと.

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