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[才市] 法然様は六万遍 才市ゃときどき
旧ブログ 2011年8月31日 (水)

法然さまは 六万べん
さいちや ときどき
六万べんも ときどきも ひとつこと
ごおんうれしや なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 p.168)

 仏事の作法でときどき尋ねられることに,「合掌・礼拝のときお念仏を称えなさいといわれるけど,何回称えればいいのか」というのがあります.特に,焼香のときなどに戸惑われるようです.答は「特に決まっていない」ですが,「そんなこと言われても余計困る」ということもあるでしょうから,「特に決まっていないけど,3回くらいがいいのではないですか」とお答えすることにしています(多分,これが標準的な(?)答えです).

 これは作法のことですが,法然門下で,お念仏はたくさん称えた方がいいのか,一回でいいのかという議論があったそうです.簡単に言うと,生涯お念仏を称え続け,そうやって積み上げたお念仏の功徳で臨終に阿弥陀さまにお迎えに来てもらうという立場と,一回のお念仏で信心が確立して救われるのであって,何度も称えよというのはおかしいという立場です.
 しかし,一回かたくさんかにこだわる裏には,自力の心が潜んでいます.私がお念仏を称えるという徳を積む,あるいは一度のお念仏で私の信心が確立されるという考えです.
 でも,お念仏は私が積む功徳ではない.救われるための積立貯金でもなければ,一回払いの完納証書でもありません.そのことに気づかされたとき,お念仏を何回称えたから・・・という議論は意味を失います.だから,「六万も ときどきも同じこと」.そして,今,私に働いている南無阿弥陀仏を喜び,それに唱和する.「ご恩うれしや 南無阿弥陀仏」.

【補足】
 礼拝の際のお念仏について,浄土真宗本願寺派教学振興委員会 編『浄土真宗必携』(本願寺刊)には次のように記されています.

目はご本尊の方にむけ,そして静かに念仏します.念仏は,「南無阿弥陀仏」と数回となえます」(p.227)

 余談ですが,「南無阿弥陀仏」をどういうか.ちゃんといえば「なむあみだぶつ」ですが,「なんまんだぶ(つ)」ということが多いのではないでしょうか.土曜学校で小さな子どもと一緒にお念仏するときは「なむあみだぶつ」とゆっくりと区切りながらいうこともあるのですが,どうも,お念仏した気になれず,口の中で「なんまんだぶ」と言い直したりしてる(^^;).このあたりは習慣の問題ですね.

 余談の余談ですが,日本聖書協会からでている以前の聖書ではキリストは「イエス」と呼ばれていました.これが,『共同訳聖書』では「イエスス」になっています.従来,プロテスタント系では「イエス」,カトリック系では「イエズス」と言っていたので,どちらにも偏らないように原音に近い「イエスス」にした,と聞いたことがあります.
 ところが,改訂版である『新共同訳聖書』では「イエス」に戻っています.いろいろあったんでしょうね.「イエス」か「イエズス」か.心情的には絶対に譲れないところだろうと想像しますが,そこをあえて妥協して共同訳を完成されたことに敬意を覚えます.でも,『新共同訳』を読むとき,「イエス」を「イエズス」と頭の中で読み替えている方もいらっしゃるのではないかと・・・.

コメント

こんばんは
この記事にはコメントを長々と書いて入れたつもりでいたのですが
どうやらここかに消えてしまったようです。再度
念仏の回数は悩んだことが私もあります、乃至十念とお経にあるのですから、せめて十回はともいえますし、とりわけ回数にこだわる必要もないともいえます。浄土宗ではちゃんと十回お念仏をするように指導していますし、お数珠も念仏の数が数えられるように算盤のような使い方をしていますね。
法然上人の日に六万遍というのも物理的に無理があるともいえますが、心臓の心拍数がそれくらいの数ですので、ありがたい心臓の動きも念仏なのかとも思います。
カラ念仏も 米や麦の籾のごとく殻がとれれば実がのこるので、するべきだとも聞きました。いずれにしろ毎日口にしている内に身に馴染んでくることは確かですね。

 破旬さま,こんばんは.
 コメント消失の件,お手間をおかけしました.こちらでも,気がつきませんでした.

 「カラ念仏も 米や麦の籾のごとく殻がとれれば実がのこるので、するべきだ」
いい言葉ですね.

 「6万遍」が心拍数にほぼ等しいということも気づきませんでした.6万の由来もこの辺にあるのかな(違うか).でも,心臓の動きがお念仏というのは,そうか,と思いました.「今,いのちがあなたを生きている」の一つの味わいになるような・・・.

 浄土宗の礼拝作法は,お念仏をたくさんとなえることもあって,真宗より丁寧で形がきれいな感じがします.それをどう考えるかはそれぞれでしょうが.

 実は,お数珠をお念仏の数を勘定するのに使うことがときどきあります.お経の最後にお念仏を6回称えるところがありますね.あそこで,時々数が分からなくなる(^^;).で,お経本を見ていないときは,親玉から初めて,1,2,3と手繰り,3,2,1ともどって6回勘定したりします.6程度の数が分からなくなるというのはカラス並みの頭ですが,これは内緒の話・・・.(そうそう,梵鐘をつくときも念珠で数えることがある).

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