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「信心は漬物みたいなもの」
旧ブログ 2011年8月10日 (水)

 ずっと昔のことですが,“信心決定の瞬間は,はっきり自覚され,そのときの喜びは忘れられないものだ”と聞いたことがあります.そして,その方が師と仰ぐ方の回想記を見せていただきました.信心決定の瞬間とその前後を回顧したものでした.
 親鸞聖人の信心決定の瞬間を描いたアニメを見たこともあります.法然上人から「まだわからぬか」と責められて,絶望の涙にくれる親鸞聖人.その絶望の底に達したとき,さっと光が差し,その瞬間,光の中で合掌し,静かに(いや,高らかに,だったかな?)お念仏を称えている自分を見出すという場面でした(ただし,この場面はアニメ製作者の演出でしょう.聖人に,このような決定的瞬間の体験記はないと思います).
 このように,信心決定の瞬間がはっきりと強い喜びをもって自覚できれば,それは素晴らしいことでしょう.でも,皆が皆,そういう決定的瞬間を追い求める必要もない.そう教えてくださっているのが,先の「聞いてみましたれば、いつのまにやらたのめてございました」ですね.
 “信心というのは漬物がつかるようなものだ”とお聞ききしたことがあります.生野菜が漬物に変わった瞬間なんて分からない.でも,知らぬ間にちゃんと漬物になっていて,一度漬物になれば,生野菜に戻ることはないという喩えです.“薫習”なんて言葉もありましたが,これも“漬物を漬ける”と似た感じです.

仏のちかひをききはじめしより,無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ,・・・
(「親鸞聖人御消息 二」)

 漬物の漬かり方を言った言葉と聞かせていただいています.

【補足】
 「親鸞聖人御消息 二」:『真宗聖典 注釈版』p.739.

 信心決定の回想記:今,手元にありません.記憶によって書きましたので,著者のお名前は伏せます(時々思い出しては探してみるのですが,見当たらない.お借りて読んだような気もします).

 アニメ:本願寺のアニメとは別のものです.どこかにあるはずなのですが,探し出して見直すヒマがないので,二十年近く前に見た記憶で書いています(したがってこれも名を伏せます).何巻ものシリーズで,非常にメリハリがあるというか,劇的な演出がなされていました.分かりやすく感動的なのですが,反面,肩が凝るような・・・.最初の数巻が寺にあったので,門信徒の方と一緒に順に見ていったのですが,聖人の信心決定のあたりから肩凝りが耐えがたくなり,そのあたりで見るのを止めました(^^;).

 漬物の喩えは,どなたからお聞きしたかまったく覚えていません.母がどこかで聞いてきたのを話してくれたような気もするのですが・・・.

 今回の記事,突っ込みどころ満載という感じもしますけど,まぁ,いいか.

コメント

漬け物も 淺漬け もしゃきしゃきして歯ごたえがありおいしいし
丁度よい漬けかげんはなおのこと、古漬けもごま油と唐辛子で少しいためれば、また別のおいしさが有りますね、それぞれの今をおいしくいただきます。今が大事です。
大谷派の御遠忌テ-マ「今 いのちがあなたを生きている」は賛否あるようですが、この訳の解らない(私には)もののために 御遠忌理念「宗祖としての親鸞聖人に遇う」がどこかに追いやられてしまい、厳しくご自分の90年の生涯を生きられた聖人に遇えずに終わってしまった感が有ります。
まだお西は継続中ですので、見せかけの安穏に終わらず嵐をちゃんと通過しての安穏に遇っていただきたいと願うばかりです。

 こちらにも早速コメントをありがとうございます.

 先日,ナスビの浅漬けが食卓に並びました.おいしかった.子供の頃は,駅弁に入っているナスの芥子漬けが好きだったのですが,最近は,漬物や焼きナスがおいしい.「自然の恵み」っていい言葉ですね.

 「今 いのちがあなたを生きている」.実は,私は結構気に入っているのです(^^;).でも,

>「宗祖としての親鸞聖人に遇う」がどこかに追いやられ

っていわれれば,そうかもしれませんね.

 「安穏」について,「御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしと・・・」から「安穏」だけを取り出すとは,と憤慨されている方(お西の僧侶)がいらっしゃいました.「見せかけの安穏に終わ」ることを心配されてのことでしょう.

今頃になってナンですが,上の私のお返事,大事なところを落としているようなので,追加.

浅漬けも古漬けも,それぞれおいしい.古漬けが浅漬けを“まだまだ漬かり方が足りん”とバカにするのはおかしいし,浅漬けが焦る必要もない.どちらも漬物,今のこの時のそれぞれの味わいを大切に・・・ってことですね.

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