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[才市] 才市は 一念慶喜は いつ済んだ
旧ブログ 2011年8月 6日 (土)

才市は 一念慶喜は いつ済んだ
へ わたしが一念慶喜は とうに済みました
わたしが知らぬうちに 済みました
わたしが知らぬうちに
如来さんの《が》 先に済めていてやんなさった
わたくし ええ如来さんに あいました
才市は こののちは どうして日を暮らす
あさましいで 日を暮らします
(楠, 一, p.100)

 「一念慶喜は いつ済んだ」とは,“信心を得たのはいつか”という意味です.次の問答では同じことが,「いつごろに[弥陀を]たのんだのか」という言い方で問われています.

 (本如上人)そなたは、弥陀をたのみました、たのみましたと言うが、それはいつごろにたのんだのか。
 (広如上人)たのむというもいつごろたのんだのやら、あまり心易きゆえに存じませぬ。
 (本如上人)いかに心易きことなればとて、後生の一大事をいつたのんだのやら知らずにたのんだとは聞えぬ。どういうことぞ。
 (広如上人)聞いてみましたれば、いつのまにやらたのめてございました。妙なことでござります。
(『安心五十問答』)

 アクション映画などで,ビルの屋上に追い詰められたヒーローが,ヘリコプターからぶら下がる縄梯子に決死のジャンプ,などという場面がありますね.あれなら,縄梯子をつかんだ瞬間は鮮明に記憶に残るでしょう.縄梯子をしっかりつかんだときは本当に安心してうれしかった・・・と.
 一方,火事のビルから,煙で意識を半ば失っている人を,救命隊員がヘリコプターで吊り上げて救助するという場面をニュースなどで見ることがあります.こんな場合,助けられた人は,いつ救命ロープが腰に回されたのか,はっきり覚えていないことも多いのではないでしょうか.気がつけば,しっかりと抱きかかえられ,ロープで高々と救い上げられていた・・・.“わたしが知らぬうちに如来さんが先に済めていてくださった”というのは,こちらですね.

【補足】
 楠, 一, p.100:楠恭『定本 浅原才市の歌 全』一のp.100(一の第2ノート49番).

 「一念慶喜」については:

「能発一念喜愛心」[正信偈]といふは,「能」はよくといふ,「発」はおこすといふ,ひらくといふ,「一念喜愛心」は一念慶喜の真実信心よくひらけ,かならず本願の実報土に生るとしるべし.慶喜といふは信をえてのちよろこぶこころをいふなり.
(親鸞聖人 『尊号真像銘文』.『真宗聖典 注釈版』, p.672).

 『安心五十問答』:この問答は,本如上人(本願寺第19世)と広如上人(本願寺第20世)父子の対話記録で,加茂仰順『御安心』にあるそうです.こちらから拝借しました.
 この対話全体を読んだときの率直な感想は“のらりくらりのヒョウタンナマズ”でした(^^;).言葉で表わし得ないものを言葉で言おうとすれば,“のらりくらり”になるか,あるいは,相矛盾する(そして一部だけを切り出せば誤解されること請け合いの)断定を重ねていくしかないのでしょう.ちなみに,この対話が行われたのは,例の“三業惑乱”の直後です.誤解されかねない断定表現を避けて“のらりくらり”になったのは,そんな時代背景もあったのでしょうか(憶測です).

 「弥陀にたのむ」と「弥陀をたのむ」をきちんと聞き分けなさいと教えていただいたことがあります.「弥陀にたのむ」は,「阿弥陀さま,よろしくお願いします」,それに対し「弥陀をたのむ」は,「たのみの綱」の「たのむ」だと・・・.はい,本文中の変な例は,この「たのみの綱」からの連想でした(^^;).なお,真宗では,「弥陀にたのむ」とは普通は言いません.私がお願いする前に,「如来さんが先に済めていて」くださいますから.

コメント

映画のたとえ よくわかりました。
しかし、知らない内というのが不安ですよね、回心はただ一度だと言われますが、つねつね自分はいつ回心するんだろう?とまじめに悩んだ時が
ありました、いまだ答えはでませんし、死ぬまでわからずしまいになるかもしれません。才市さんのように知らないうちに済んでしまっているのかもしれません。だといいんだけど・・・・

 私も真面目に悩んだ時期がありました.特に私の場合,「信心決定(回心)」と「自信教人信」という二つの言葉が対になって,いつも追われているような感じがしていました.“自分が信じてこそ人を教へて信ぜしむる”ことができるのに,住職になるまでに間に合うだろうか,と.
 ちょっと気が楽になったのは,門信徒の方と『正信偈』の読書会をしていて
   極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
   煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
の句に改めて出遭ったときでした.
 敢て無責任に聞こえる言い方をすれば,オレが教えて信じさせるわけじゃない.オレの回心なんか知ったことか.「常照我」で何の不足やある・・・.
 多少真面目な言い方をすれば,門信徒の方は“私の思想”を聞きにおいでになるのではない.阿弥陀さま,親鸞聖人のみ教えを聞くためにおいでになるのだから,間違いがないようただお取次ぎをすればいい,見えなくても常に照らしていてくださる,それで十分,そう腹を括ってから楽になりました.
 項を改めて,続きみたいなことを書きます.

真宗は悩みの宗教ですね。自信教人信も大変な事です。禅宗のように
師匠からOKを出してもらうことも有りませんので、これでいいのか?が
常につきまといます。お互いに悩みとおす日暮らしをさせていただくばかりですね。

 さっそくお返事ありがとうございました.

>真宗は悩みの宗教ですね。

まさにそうですね.私の上のコメントと次の記事では,この辺が希薄になっていました.足りないところをきちんと補ってくださり,ありがとうございます.

 「真宗は安心して悩むことのできる宗教だ」と,ある先生から聞かせていただきました.

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