浮世のことは あてにはならぬ
なったことが くるっとかやる《かえる,ひっくりかえる》
あてになるのは なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 p.239)
津波のことを聞いたのは勤め先でした.東京のお台場が水につかったと.ありゃりゃ大変なことになったとは思いましたが,東海大地震ではないらしいのでちょっと安心して・・・家に帰ってみたら,想像を絶する映像がTVに映し出されていました(意外とTVなどの情報源から切れている職場であることを痛感).
津波がすべてを押し流す映像を見ながら,近くのお寺の前住職さまが急に亡くなられたときのことを思い出していました.
未明に知らせを聞いたのですが,両親が駆けつけたので私はとりあえず職場へ.休憩時間に(当時はまだあった)喫煙室でタバコを吸いながら,思いは,そのお寺の残された方々へ.でも,そんなことを考えている私の周りは穏やかな春.その中で私は昨日とまったく同じように呑気にタバコなんぞをふかしている.その落差に,戸惑いのようなものを感じました.
自分自身の身に何かが起こった場合も同じような戸惑いを感じます.日常がばっさりと切断される.昨日までが夢だったような,あるいは逆に現在の状況が夢で目が覚めると昨日と同じ世界がちゃんとあるような,いや,あって欲しい・・・.昨日と今日,この余りに落差の激しい二つの世界がともに現実であることが受け入れられない.
地震のニュースを聞いた翌日,ご門徒さんの家にお参りに行って,御文章を拝読したとき,「末代無知の在家止住の男女たらんともがらは」という句が心に響きました.押し寄せる津波に対して私たちはまったく無力でした.でも,そのことを忘れて暮らしている.浮世の一寸先のことについてまったく無智なのでした.
そんなことを考えて座り込んでいる私の横で,坊守は,すぐ送れるもののリストを頭の中で作り始めていました・・・.