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[才市] わしの心の変わり目知れぬ
旧ブログ 2011年2月17日 (木)

あさましや
わしのこころの かわりめしれぬ
こころかわりの はやいこと
くるくると
ようかわる ようかわる
こんなこころが あなたにとられ
ごおんうれしや なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 p.87)

 学生の頃でしたか,ラジオで誰かがこんなことを言っているのを聞きいたことがあります.

口げんかをしていて,辛辣な言葉を投げつけてやりたいのに,そんな言葉が出てこない.以前はそれがもどかしく残念だった.相手をぐさりと刺す言葉が言えるようになりたいと思っていた.でも,最近はむしろ言えない方がいいと思うようになった.言ってしまえば,あとできっと後悔するから.
(記憶による要約.発言者不明)

 これを聞いたとき,いや,やっぱり悔しい,と思ってしまいました(^-^;).チャーリー・ブラウンとスヌーピーのマンガに,“辛辣なことをいってやりたくてうずうずする”とスヌーピーがしかめっ面でつぶやく場面がありましたが,そちらの方に共感していました.でも,だんだんとこの言葉に共感するようになってきました.
 ある小説で,次のような場面を読んだことがあります.

 讒言によって怒りに駆られた皇帝ネロは,セネカに死を命じたが,怒りが収まった後,それを後悔するようになる.それを察したセネカ派の側近が死刑の中止を進言したところ,反セネカ派が,皇帝がいったん発した言葉は取り消せないと言ってあくまで死刑の実施を迫った.そのとき,セネカ派の側近いわく,“それ(死を命ずる言葉)は皇帝の言葉ではない.怒りが言った言葉だ(だから取り消してもよい)”
(『クォ・ヴァデス』より記憶による要約)

 インタヴューアの仕事をしている人が,“本音を引き出すために,相手をわざと怒らせる”と得々と語っているのを読んだことがあります.非常にいやな気分になるとともに,怒らせて言わせたことが“本音”と言えるだろうかとも思いました.上のレトリックを借りると,相手の本音ではなく,怒りの本音を聞いているに過ぎないのではないか,と.
 とは言うものの,“怒りが言った”というのはやはりレトリックでしょう.怒っているこの私が言ったことには違いありません.別の言い方をすれば,ひどい言葉を言ったのが“怒り”だとすれば,“あんなこと言ってごめん”と言っているのは“後悔”です.“感覚の束”という言い方がありますが,それを借りれば,“本当の私”があってその表面をたまたま怒りが覆うというよりは,怒りや後悔,喜びや絶望などの感情の束が私に他ならない.そんな私の発する言葉は,くるくる回る藁束が撒き散らすゴミです.そんなゴミを撒き散らして人を傷つける姿は,まさにあさましいとしかいいようがありません.
 そんなあさましい姿に気づかせてくれるのが,南無阿弥陀仏の働きでした.

【補足】
破旬さん,ごめんなさい.書いてみたらあんまりシンクロしていませんでした.当方,アミダプロバイダとの接続がいまひとつのようです.

“皇帝が一度発した言葉は皇帝自身も取り消せない(取り消した場合は皇帝の資格が疑われる)”という了解がローマ帝国に本当にあったのかどうかは知りません.でも,中国にも「綸言汗の如し」という言葉もありますし,このような考えは洋の東西を問わずあったのだろうと思います.
 因みに「綸言汗の如し」という言葉は,皇帝の無謬性と深く結びついた言葉ですので,最高権力者といえども無謬ではありえないと考える民主主義では,そのまま用いることはできない言葉でしょう.でも,いい加減にして欲しいといいたくなることが多すぎますね.

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