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[才市] 阿弥陀さんに 返し討たれて
旧ブログ 2010年9月29日 (水)

わたしゃ あみださんと いくさ《戦》をしたが
いまは あみださんに 返し討たれて
なむあみだぶの なかにうちとり
とられて あんき《安気》
六字のふち《扶持》を あたえてもらい
ごおんうれしや なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 pp.22-23)

 先日頂いたコメントを読んでこの歌を思い出しましたが,きちんと読み直してみると,直接的な関連はないようですね(^-^;).おそらく,“あんたにゃ負けた”といった雰囲気が似ているように感じたのでしょう.

 阿弥陀さんとの戦とは,どんな戦でしょうか.いろいろな形が考えられますが,才市さんの場合,おそらく,“分からない,もう一つ納得できない”と,自分が分かることを求めること,あるいは,常に変わらぬ喜びを信心の証として求めることだったのではないかと想像されます.でも,それは,自分の心を頼りにしているわけで,結局は,自力のはからいでした.
 それを阿弥陀さまによって翻されたことが,“返し打たれた”の言葉となったのでしょう.これに続く3行目は,ここだけ,(省略された)主語が阿弥陀さんになっています.ちょっと異質な1行が紛れ込んでいるような感じを受けますが,すべては阿弥陀さまの側からの働きであったという驚きから,主語がひっくり返ったようにも感じられました.いかがでしょうか.

コメント

こんにちは この詩は読んだきおくがあります。
私も阿弥陀様との いくさ はいつもやっております。
こちらの戦法は 疑ったり 逃げたり することです。これでは最初から勝ち目はありませんね。
私は 常つね 「自分は 何時 回心するのだろう?」
と思っていました。昨日、大谷大学の一楽真さんのお話を聞いていて
はっきりと回心したという感覚は死ぬまで感ずることはないだろうと思いました。先生にその事を質問というか感想として言わせていただいたら。
親鸞聖人も「雑業を棄てて、本願に帰す」と言われているが、「回心したとは言われていませんよ」と答えていただきました。確かにその後延々と悩みぬかれて生涯を終えられました。
私も知らないうちに 回心状態になり、法を聞く身にさせていただきましたが、聖人と同じように死ぬまで悩み、聞き続けていくしか無いのだと気付くかせていただいたことです。
ぜんぜん話は違いますが、いちもブログを通していろんな教えをいただいている愛媛・大三島の寺のブログに 仏足頂礼 と有ったので、以前
通夜布教で教えていただいた、西本願寺の両堂の床高の違いについて
コメントしたら、「それは知りませんでした」とのことでした。
阿弥陀堂の床より御影堂の床が1m余り低くしてあり、阿弥陀様の御足の位置に親鸞聖人の御影の頭が来るようにしてあるそうです。聖人は
阿弥陀様に常に仏足頂礼をされているのだと・・・知ってました?
このように字知り顔の破旬壮年は知ったかぶりするわけです スミマセン 

こんばんは.

>親鸞聖人も「雑業を棄てて、本願に帰す」と言われているが、「回心したとは言われていませんよ」と答えていただきました。

 なんとなく,お東の方は思い切ったものの言い方をされるような印象を受けていますが,これも,思い切ったご回答ですね.反論する気で聞けば,言葉の上ではいろいろ批判できますが,それをご承知の上で,敢てこう答えられたのでしょう.
 ま,お西にも「熱心に聴聞するのにロクな奴はおらん.聴聞のときは寝ておれ」なんておっしゃった和上様もいらっしゃいますが.これ,言葉だけ切り出せば,仏教に何の価値も認めていない人の発言といっしょですよね.

>私も知らないうちに 回心状態になり、法を聞く身にさせていただきました

親鸞聖人のお手紙にある一節が心に沁みます.

「釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて・・・候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ・・・」

>阿弥陀様に常に仏足頂礼をされているのだと・・・知ってました?

 もちろん,知りませんでした.
 へぇー,そうなんですか.御影堂修復のヴィデオでも聞かなかったような・・・(あ,あれは床を張り替えたわけではないので,出てこなくて当然か).こんなお話を聞かせていただくと,へぇーって感じで,なんだかうれしいです.何が嬉しいのかと言うと・・・え~~と,つまり,そういうふうに本願寺を設計された方,どこのどなたか存じませんが,そういう方の心にちょっとだけ触れることができたような気がしてうれしい,というか,まったく知らない人だけど,そういう方が確かにいらしたと感じられて嬉しい・・・のかな?
 コメントは,下書きなしで直接書き込んでますので,フニャラフニャラした文章になり失礼しました.

書き忘れましたが
回心 は 目的地ではなく スタ-ト なのだ
とも言われました。
その後 自分がどうなったのかが問題なのだと・・・
仏法聞き難し いますでに聞いていました。
聞いた法を 食べてどう味わうか
たまには誤嚥し、吐き出しつつ、噛んで噛んで租借して
栄養とするのでした。醍醐味ですね。
>,お西にも「熱心に聴聞するのにロクな奴はおらん.
そうそう、ろくでもない自分との出会いのために この世に生まれて
きたのでした。なんまんだぶ

釈破旬さま
 お返事,遅くなりました.

>回心 は 目的地ではなく スタート なのだ

 以前,報恩講においでいただいたご導師の方からも,同じようなことを聞かせていただいたことがあります.“山の頂上に着いたのではない,あちこちふらふらさ迷っていたのが,方向が定まり,山の方に向けて一歩踏み出したということだ”
というような表現をされたと思います.
 ゴールではなくスタートと言われて嬉しくなるか,逆に,“先は長い!”とやりきれなくなるか・・・.信心に向けて自力の努力を重ねていれば,“スタート”といわれて絶望するかもしれません.でも,“あなたと歩む砂浜に 打ち寄せる波の 春の音 鳥の声”という歌を中学校で習ったような気がします.これなら,スタートといわれても,心ウキウキ(今は秋ですが^^;).

>そうそう、ろくでもない自分との出会いのために この世に生まれてきたのでした。なんまんだぶ

才市さんに引き寄せて言えば,鬼である自分との出会いのためにお寺に参るということになりましょうか.というわけで,次回はこれについて.

しつこいコメント ご容赦を!!
他力を知ってからの 自力は 知らない前のものとは大きく違うように
思います。光を知ってやみに住むような感じでしょうか・・・
地元の念仏者 清沢満之師は
「人事を尽くして 天命を待つ」
を言い換えて
「天命に安んじて 人事を尽くす」
といわれました。
安心して 悩み苦しませていただきます。楽しいことも当然ありますけどネ

しつこさでは負けないかも(^ ^;)

>安心して 悩み苦しませていただきます
「無碍」とは,苦しみがなくなることではない,苦しみが障りにならないことだと聞かせていただいていますが,その味わいですね.このお言葉,また,そのうち法話で紹介させていただくかもしれません.
 (先日の欅の落ち葉の話,さっそく彼岸の法座で紹介させていただきました.ヒヨコの歌の話も.ありがとうございました.名古屋の方のかたからお聞きした,という言い方をしましたので,門徒さんは,破旬さんを私の学生時代の知り合いと思ってらっしゃるかも.)

>「天命に安んじて 人事を尽くす」
いい言葉ですね.
ちょっと他人事めいた話になりますが,ウェーバーの『資本主義とプロテスタンティズムの精神』を援用して,大阪商人の勤勉さを支えたのは真宗だったと論じた方がいらっしゃるそうです(その論自体は読んでいません).そんなことを思い出しました.

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