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[才市] よろこびは 風のようなもので
旧ブログ 2010年9月19日 (日)

よろこびは かぜのようなもので
あてにはならぬ
ふいてにげるよ あとかたもなし
(『ご恩うれしや』, pp.125--126)

 小学生のとき,こんな授業がありました.
 バケツに,お湯,ゆるま湯,冷水を入れ,最初に両手をそれぞれ,お湯と冷水につける.しばらくして両手をぬるま湯につけてみる・・・という実験です.同じぬるま湯なのに,お湯につけていた手では冷たく感じ,冷水につけていた手では温かく感じました.このあと,“人間の熱い・冷たいという感覚は当てにならないので,温度を正確に知りたいときは温度計を使って測りましょう”という話になったのでしょう(その辺は忘れてしまいました^-^;).
 似たようなことは,日常生活でも経験することではありますね.冬にお風呂に入るとき,最初は暑い湯に我慢して入っていたのに,身体が暖まってくると,むしろぬるく感じるようになる,それと同じことです(もっとも,この場合はお湯が実際に冷めてきたという可能性もあるので,本当のところは,それこそ温度計を使って調べるべきですが).

 “実験・観察に基づかなければ科学的ではない”と言われます.これはその通りなのですが,でも,これを裏返して,“実験・観察にもとづいていれば科学的だ”とは言えません.人間の感覚は当てにならないところがあります.ですから,単に“やってみたらこうなった”では,科学的事実とは認められず,慎重な検証(たとえば再現性)・検討を経て初めて科学的事実と認められるわけです.
 その辺を理解していないのが,いわゆる“とんでも科学”の人たち(の一部)ですね.“とんでも科学”でも,実験・観察は一応やっています.でも,“やってみたらこうなった”と無邪気に主張する.自分の経験をそのまま科学的事実にしてしまう点で非科学的です.自分の感覚・経験への疑いがまったく見られない.
 私は一応理系ですので,その辺のところはかなり叩き込まれました.はっきりそう教えられたのは上の小学校の実験くらいしか記憶がありませんが,実験データの扱いやら,実験から引き出された結論の妥当性の検討などを通して教えられたというところです.そういうわけで,自分の感情を当てにしないという才市さんの歌や前回のルイスの言葉は,すっと納得できました.“仏教は因果の道理に基づくから科学的だ”という主張をしばしば耳にしますが,私にはむしろ,“因果の道理”より,こちらの方に科学との親和性を感じます.
 ま,こちらを取ると,キリスト教を,“非科学な邪教だ”と非難できなくなります.科学の威を借りて仏教擁護とキリスト教非難を一度にやってしまおうとする向きには不都合かもしれません.

【補足】
冒頭の歌の全文は次の通りです.

よろこびは ごおんほうしやのよろこびで
なむあみだぶと いうてよろこぶ
さいち
よろこびを あてにしては をらんかい
いいやの《いいえ》 いいやの
よろこびは かぜのようなもので
あてにはならぬ
ふいてにげるよ あとかたもなし
(『ご恩うれしや』, pp.125--126)

 本文最後の一段落は,いらぬ当てこすりでしたね(^-^;;).“因果の道理に基づく仏教は科学的だから正しい教えだが,因果の道理に基づかないキリスト教は非科学的で邪教だ”という話にうんざりしたのは,もう,30年以上前,ある学生サークルに入っていたときのことです.それを今頃になって蒸し返したくなる・・・.あのサークルでの経験は結構トラウマになってるのかなぁ~~(^-^;;).

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