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[才市] 弥陀成仏のこのかたは・・・わしの心に へたまいて
旧ブログ 2010年9月 9日 (木)

弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまえり
わしのこころに へたまいて
くださる慈悲が なむあみだぶつ
(鈴木, p.190)

 「刑事コロンボ」の再放送をしていますね.数日前には『忘れられたスター』がありました.このなかに,往年の映画スターとコロンボとのこんな会話があったと思います.

 「私もスターにあこがれたんですけどね,風采はご覧の通りだし,音痴の上に踊りもダメ.どうすりゃいいですかね」.
 「評論家におなんなさい」.

 この劇中の映画スターは,現役時代,評論家にあれこれ言われ,悔しい思いを何度もしたのでしょう.“あいつら,自分は何もできないくせに人のことをあれこれとあげつらって”っと.そしてこれは,脚本家や俳優自身の気持ちも代弁しているのでしょう.加えて,コロンボの台詞を言っているのは俳優として成功した人です.そんなことを考えて思わず笑ってしまう場面でした.
 もちろん,どの分野においても,的確な批評というのは必要ですし,優れた評論家が優れた俳優である必要はありません.スポーツ競技では監督・指導者が重要な役割を果たしていますが,優れた監督・指導者が一流のプレーヤーである必要はないのと似たようなものです.逆に,一流のプレーヤーが一流の指導者・監督ではなかった例もときどきありますね.
 しかし,いわゆる“評論家的”な態度が有害無益なこともあります.そして,信心に関しては,これが決定的な分かれ目になります.いくら教義について詳しくても,これを他人事として評している限り,それは信心ではありません.

 上に掲げた才市さんの歌は,親鸞聖人のご和讃を借りて,「阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった」(『歎異鈔』)ことを喜んだものです.お念仏のみ教えを,まさに我が事として聴聞していたことが窺える歌です.

【補足】
 元歌はよくご存知の『浄土和讃』の(3)です.

弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり

 『歎異鈔』からの引用は本願寺の現代語訳から.

 実は,刑事コロンボの今回の再放送はまだ見ていません.上の場面は,30年くらい前(?)の記憶を元に書きましたので,違っているかもしれません.

 先日来,腰痛がひどくなって書き込みが途絶え,失礼しました.実は,椅子に座っていればそれほどでもないのですが,肘をついていないとつらいので,キィボードが思うように打てません.寝っころがって本を読んでいるか,左肘をついて,右手でマウスをカチカチやりながら漫然とインターネットサーフィンをしているという怠惰な生活を送っています.

コメント

私も腰痛持ちなので、ご苦労は推察できます。お大事になさってください。
和讃の へたまへり は時間的な経過を言っていると思いますが
才市さんの へたまいて は おいでくださって というような意味でしょうか?
よく法話をされる方で 親鸞聖人のことを しんらん シンラン と何度となく呼び捨てにする人が居ますが、耳障りでなりません。
わたしの場合、まだよく親鸞聖人のことを知りませんが、知ればしるほど
呼び捨てにはできないお方度が増してきます。評論の対象とはなりえませんが・・・・
すこし前までは しんらん という名前を呼ぶことさえ失礼なので 
ごかいざんさま etc と呼んでいたそうでは ありませんか 
そうそう、稲田へ行ったとき 恵信尼廟の場所を道で尋ねたら
「たまひめさまは まっすぐ行って・・・」と親切に説明してくださりました。
稲田の人たちは 今の時代になっても 玉姫さま と親しみを持っていられることに驚いたことがありました。

釈破旬さま
 お見舞い有り難うございます.お返事が遅れ申し訳ありません.破旬さんも腰痛でしたか.

 才市さんの「へたまいて」は,確かに分かりにくいですね.おっしゃる通り,ご和讃の方は時間的,才市さんの方は経路的な“経たまふ”だろうと一応は理解できると思います.
 “阿弥陀如来が成仏されて以来,今までに十劫という長い年月が流れたが,成仏から今日までずっと私の心を通して歩んでくださったのが,阿弥陀さまのお慈悲であった”というような意味になりましょうか.以前ご紹介した藤実先生のご法話( http://houju.txt-nifty.com/blog/2010/05/post-6665.html ) のなかに,「法蔵とはどこに修行の場所あるか,みんな私の胸のうち」というある方の言葉が引用されていましたが,味わいとしては同じだろうと思います.
 才市さんの同じノートには,こんな歌もあります.
「弥陀成仏のこの方は 才市の心に経たまえり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
古文はよくわからないのですが,この歌だと,もう,日本語としては無理があるように思います.ということは,この歌,さらに冒頭に掲げた歌では,日本語としての正確さはあまり気にしなくてよいのではないでしょうか.ご和讃を読んでいるとき,ご和讃の言葉に乗って喜びがあふれ出たのであり,私達としては,「おいでくださって というような意味」(釈破旬さま)と味あわせていただけばそれでいいと思いますが,いかがでしょうか.

 「親鸞」という呼び捨てのことは,次のコメントに分けます.長くなりそうで・・・.
[公開後,一部修正しました.藤見->藤実,url表記]

続き,呼び捨てのことです.

 まず,破旬さんがおっしゃっているご法話の席のことは後回しにして,一般論ですが,状況によっては「親鸞」と呼び捨てにすることもあるだろうと思っています.ちょっと変な例を挙げますと・・・
 少し前に“ヨンさまブーム”ってのがありましたね.で,わたしのような無粋の輩が,それはいったい誰だと思ってファンの人に尋ねようと思ったら,皆さん「ヨンさま,ステキ~~,キャ~~,ヨンさま~~」なんて盛り上がっている.そういうのを見るとちょっと腰が引けてしまいます.あるいは,そういう調子でいくら熱をこめてヨンさまがいかにステキかを話してもらっても,ちょっと判断を保留したくなる.こういう場合にはやはり「ペ・ヨンジュンは韓国の俳優で・・・」と冷静・客観的に話してくれたほうが抵抗なく聞けるし,なるほどいい俳優さんなんだなと納得してもっと聞いてみようということになるような気がします.
 この際ですから,ついでに白状しておくと,私は以前は『大乗』(西本願寺の雑誌)を敬遠していました.「ヨン様ステキ~~」の気配があるようで,ちょっと近寄りがたく感じていたのです.それに対して『季刊 せいてん』は,大変読みやすく,この雑誌を通してやっと『大乗』にたどり着きました.『季刊 せいてん』でも,さすがに「親鸞」という呼び捨てはなかったと思いますが,仮にあっても,この雑誌ならそれほど抵抗感はないだろうと思います.
 も一つついでに,この夏,龍谷大学で仏教の講義を聴講する機会を得ました.「世親」から始まって,「玄奘」,「慧遠」,「貞慶」,「法然」などという名前が呼び捨てでボンボン出てきましたが,その中に「親鸞」という名前が入っていても特に抵抗感はなかっただろうと思います.その一方で,講義の合間に休息の(?)雑談が入り,“東南アジアでは,写真でご覧になったことがあるでしょうが,大きな金色のお釈迦様の像を拝むんですよ.たいてい現世利益を祈っているんですが,でも,イスラムが多い東南アジアで,仏様に頭を下げる姿を見ると,それだけで嬉しくなりますねぇ”なんておっしゃる.そういうときに「親鸞が」って言われたらカチンとくると思います.個人的な思いを語っていらっしゃる文脈だからですね.
 というわけで,状況・文脈によって「親鸞」が適当な場合とそうでない場合があり,あえて,評論の対象とし,客観的に語らなければならない場合もあると思います.
 で,破旬さんがおっしゃっているご法話がこの場合に当てはまるかどうかという話になりますが,これは,私にはわかりません.でも,「ご法話」といえば,普通,客観的な講義ではないですよね.破旬さんが,「耳障りでなりません」とおっしゃっているからには,やはり,呼び捨てにする場合ではないのだろうと思いました.

 ちょっと話が別ですが,聞きなれた言い方ということも大きいと思います.私の場合でいうと「蓮如さん」,「阿弥陀さん」という言い方をよくします(「さま」ではなく).これは,敬い,かつ親しみをこめてそうお呼びする言い方をよく耳にするからでしょう.一方「親鸞さん」という言い方には非常に抵抗を感じますが,これは別に「阿弥陀さん」や「蓮如さん」より「親鸞さま」がエライということではなく,単にそういう呼び方を聞いたことがないということが理由だと思います.「阿弥陀さん」,「蓮如さん」に相当するのは私の場合「ゴカイサン」かな.これも,回りの人がそうお呼びしていたからでしょう.
 ついでながら,私は子供の頃,聖人のお名は「ゴカイ」だと思っていました.「ゴカイ シンラン」,敬称をつけて「ゴカイさん」.いや,変な名前だなぁとは思ってたんですけどね.ある方が,才市さんの歌には親鸞聖人が歌われていませんねぇとおっしゃったことがあります.「ご開山さま」という呼び方をご存知なかったようで,「ゴカイ」をお名前と思っていた私といい勝負です(^-^;).

長文,失礼しました.

呼び捨て問題に答えていただき 深謝!!
私が聞いた耳障りな法話は 本山が全国民法で放送している
ラジオ法話「本願寺の時間」で滋賀県の若い僧侶が話されたもので
教義的でも学術的でもない話だったので、余計に耳に障ったようです。
junkさんのコメントを読んで 呼び捨ての呪縛から かなり開放されました。本山(ひがし)にもHPを通じて苦情(愚痴ていど)を入れたのですが
無しのつぶて でした。junkさんのような回答をくれるとありがたかった
ですね。

長いコメントをお読みくださりありがとうございました.
長くクドクなるのは,たいてい,自分自身に言い聞かせている場合です(^-^;).

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