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[才市] なむあみだぶと 連ろうてでたよ
旧ブログ 2010年8月26日 (木)

ぐちがでたでた またでたよ
なむあみだぶと 連ろうてでたよ
機法一体 これがこと
よこめふらずに これをたのしむ
ごおんうれしや なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』pp.240--241)

 お念仏にであったからといって,怒りや愚痴がなくなるわけではありません.そんな私の心を包み取り,しっかり結びついて離さないのが阿弥陀さまの働きです.ですから,怒りや愚痴が出てくると,それに引っ張られて,お念仏もいっしょに出てくる.
 そのお念仏によって,怒りや愚痴に捉われた自分の姿を知らされます.そのとき,怒りや愚痴は,自他を傷つけるるような鋭さをおのずと失う.これが,お念仏の働きではないでしょうか.

 こんなご法話を聞かせていただいたことがあります.

真宗のご縁で日本に来ているある白人の方が,無礼なことを言われて怒ったのを間近で見たことがある.怒りで顔が赤くなる様子が,肌が白いのでよくわかる.顔の下のほうから,耳,額と赤みが上がっていく.“頭に血がのぼる”というが,まさに血が頭に向かってあがっていくのが手に取るように見えた.それが,とうとう,頭のてっぺんに達し,さあ怒鳴り返すぞ,と見えたとき,彼の口から「なまんだぶ,なまんだぶ,なまんだぶ・・・」というお念仏が聞こえてきた.

【補足】 ここでの「機法一体」も,先の場合と同じで,私(機)と阿弥陀さまの働きがしっかりと結びついているという意味が強く,普通に言う機法一体とは味わいの重心が少しずれているように感じますがいかがでしょうか.‘仏心と凡心とが一体になる’という意味ともいえますが,ただ,下の御文章のなどで蓮如上人が「仏心と凡心と一体になる」とおっしゃっている場合は,「わろきこころを如来のよき御こころとおなじものに」するという点に重点が置かれていますので,これともまた,少し違う気がします.

・・・ふかく信じて、さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。これによりて弥陀如来の遍照の光明のなかに摂め取られまゐらせて、一期のあひだはこの光明のうちにすむ身なりとおもふべし。
(『御文章』二帖(10)より.『浄土真宗聖典 注釈版』 p.1124)

コメント

こんばんは
自他を傷つけるるような鋭さを 十分発揮してから 怒りや愚痴に捉われた自分の姿を知らされる毎日を生きていますが、なかなか お念仏が
口から出てくれません。
機法一体 どころか 機危機一体 状態であります。もっとも仏法に触れていなければ 今頃は空中分解していたでしょうから、阿弥陀さんのはたらきは わが身に届いていることは間違いないようです。
正座に関するmyブログのア-カイブを調べていただきありがとうございます。そういえばずいぶん前に書いてましたね!!

釈破旬さま,こんばんは.
 空中分解で思い出しましたが,無意味な大量殺人を犯した犯人が,「死のうと思ったけど,一人で死ぬのは癪だから,たくさんの人を道連れにして,自分も死刑になろうと思った」などと言うことがあります.とんでもない話で,殺されたほうはたまったものではありませんが,でも,このような感情がまったく理解不能というわけではないのが怖いところです.
 状況や,相手に対する気持ちは少し違いますが,中島みゆきの歌に,“私がガラスのナイフなら,あなたを刺しながら砕けてしまいたい”という意味の歌詞があったように思います.
 放って置けば他人を巻き込んで空中分解・・・.

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