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言葉の花束
3.疑いと迷信
2003.03.18
疑い深い人間のほとんどがそうであるように,彼も迷信を深く信じていた....
チャールズ・ホイブリー「午前零時の鐘」 (シンシア・アスキス編『恐怖の分身』122頁)

疑い深い人間がかえって迷信にとらわれやすい・・・一見逆のようですが, たとえば,本当のクリスチャンは星占いなど信じないのではないでしょうか.

クリスチャンに限りません. 日本でも本当によく仏法を聞いている人は(すくなくとも真宗では), 仏滅などは気にしないし,受験合格祈願など一切しない(というか, 最初からまじめに考える気になれない)だろうと思います.

つまり,ここで言う「疑い深い人間」とは,キリスト教について疑い深い人間,もっと広くいうと宗教に疑い深い人間ということです.確固たる信仰・信心がないために,世間に流布している迷信を拒否できず,その結果,もっと疑ってよいことを簡単に受け入れてしまうのではないでしょうか.

人が神を信じなくなると,その第一の影響として, 常識をなくし,ものごとをあるがままに見ることができなくなる. 人が話題にのせ,これには一理も二理もあるともてはやすものはなんでもかでも, まるで悪夢の中の光景のように際限なく広がってゆき, 犬が前兆となり,ねこが神秘に,ぶたがマスコットに, カブト虫がお守りになるといったあんばいで, エジプトから古代インドまでのあらゆる汎神論の一大動物園が現われる.
チェスタトン「犬のお告げ」 (福田,中村訳『ブラウン神父の不信』112頁)

「汎神論の一大動物園」というのに笑ってしまいましたが, いろいろなまじないや迷信を, 起原の違い,理論や世界観の違いなどお構いなしに無差別に受け入れてしまう状況は,南極のペンギンから熱帯の大蛇まで,ありとあらゆる動物が1ヶ所に集められている動物園みたいなものですね.

なお,チェスタトンからの引用は,一部を(私にとって)わかりやすく直しました.


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