仏法は自分のために説かれた・・・そう才市さんが受け取っていたというエピソードって何?
1912年,才市さんが数えで63歳のときのことだ.近くのお寺,西楽寺で親鸞聖人650回忌法要がいとなまれ,服部範嶺和上がお説教をされた.範嶺師は,地元,瑞泉寺の住職だった方だ.そのお説教で,和上は,
信心を得るのは大変難しいことで,たとえば富籤に当たるようなものだ.いまから当たったものの番号を読むからよく聞け
と,前置きして,おもむろに御文章の拝読を始められた.御文章というのは,前回出てきた蓮如さんのお手紙をまとめた本だね.
そう.真宗(西本願寺)では,お説教の最後に「肝要は御文章」と言って御文章を拝読し,そうやってお説教を締めくくるのが一つの型になっている.その型に従い,ちょっと前置きの言葉を変えて御文章を拝読されたのだろう.
信心の富籤に当たった者の番号が書いてあるご御文章って?
そのとき拝読されたのは,御文章第5帖第1通.前回写真を見てもらった第10通(「聖人一流の・・・」)とともによく拝読されるところで,こう始まる:
末代無智の在家止住《ざいけしじゅう》の男女《なんにょ》たらんともがらは・・・
ここまで聞いたところで才市さんは・・・
ちょっと待って.なに,それ.どういう意味?
「末代」というのは,「末法の世」ということだが,“世も末だ”と言いたくなるような世相・社会くらいの意味に受けとっていいと思う.「無智」というのは文字通り“智慧のない”,「在家止住」とは,“出家もせずに俗世に止まっている”ということ.だから,上のお言葉は,“濁りきった末の世に暮らしながら無智のままで出家もせず,世俗にまみれて暮らしている男女は・・・”くらいの意味だ.
ここまで拝読されたとき,才市さんが突然立ち上がり,
当たった,当たった,わしに当たった
と叫んで,両手を高く上げたままにして踊るように一回転,ふと気がついて恥ずかしそうに座ったという.
えっと,つまり・・・
信心を得るというのは,阿弥陀さまの救いにあずかるということだ.“このわしは,阿弥陀さまの救いにあずかっているんだろうか,当たっているのだろうか”と,ドキドキしながら聞いていたら,「末代無智の在家止住の男女」が当たっている,と言われた.それ聞いて才市さんは,それは自分のことだと,喜んだわけだ.
つまり,阿弥陀さまの教えは,自分のための説え,ということか.才市さんは学校も出ていないし,当時は今ほど科学も発達していなかったから,「無知の」って言われてピンときたんだね.
いや,「無知」ではなくて「無智」だ.いくら高学歴でも,科学が発達しても,「無知」ではなくとも,やはり私たちは「無智」のままだ.
え?「無智」を簡単に「無知」って書くんじゃないの?
ま,そういうこともあるが,それだからこそ,「無知」と「無智」,どちらのことが言われているのかしっかり区別しなければならない.
「無知」と「無智」,どう違うの?
たとえば,この御文章のすぐ次の御文章(第5帖第2通)におおよそこんなことが書いてある.
たくさんのお経をよく読んでいても,生死《しょうじ》の問題,何のために生きているかを知らない人は愚者である.これに対し,お経どころか,まったく文字が読めない人でも,生死の問題を知っている人は智者である.
いろいろ知っていれば「無知」ではないけど,でも,生きる意味がわかっていなければ「無智」なわけか.そういえば,“科学では,Whyと問うても実り豊かな研究はできない,Howというのが良い問いである”って言われたことがあるけど・・・.
“なぜ人は生まれてきたのか”,つまり,生きる意味について科学は答えない,“いかにして生まれるのか”,つまり,生まれる仕組みを解明するのが科学だ,ということだね.いくら科学が発達しても「無智」のまま,というのはそういうことだ.
すごい,すごいと,いばるな,科学・・・.
ははは・・.でも,念のために言っておくと,これは科学を貶めているのではない.自然科学には,人の智慧や理性,そして経験(実験)の限界について非常に鋭い自覚を持ち,自己抑制をしている面がある.この,“WhyでなくHow”なんてのもその例だ.そして,この自覚と自己抑制は,科学の欠点ではなく,自然科学の魅力と力の源泉になっているのではないだろうか.だけど,そのことがしばしば忘れられている.
NHKの「コズミック・フロント」という番組の最初に,いつもニュートンの言葉が引用されていたね.「私は浜辺で綺麗な石や貝殻を見つけて喜んでいる子供に過ぎない.真理の大海は,未知のまま,私の前に広がっている」.こんなこと言うニュートンもすごいけど,「未知の真理の大海」があることに気付かせる科学もすごいな,って思う.
そう.ニュートンはなかなか複雑・老獪な人物で,その言葉を文字通り受け取れないところもあるけど,この言葉は本心だろう・・・.いや,話がずれてきたね.
話を才市さんの逸話に戻すと,才市さんがお説教のときに立ち上がったのはこのときだけでなく,よくあったことらしい.また,才市さん以外にもそういう人がいたという.それについては回をあらためて.