わしの心の燃え立つなかに
入《い》りてくださる
なむあみだぶつ
(才市, 鈴木, 12:047)
「燃え立つ」と言えば当然,「燃焼の説法」を連想すべきでしょう.才市さんも,その話を聞いてこの口あいが出たのかもしれません.
ところが,困ったことに(?)私が「燃え立つ心」でまず連想するのは,『ジャン・クリストフ』の最後から二つ目(第9巻),「燃える柴」です.
世間から認められず,批判されても,自己の精神には何も恥じるところはない・・・そう思って,自分の精神の純粋さを恃んで誇り高く生きてきたのに,それが粉々に打ち砕かれてしまった.逆上して警官を殺し,パリを逃れ,そんな自分を保護してくれた医師の妻と恋に落ちる・・・.すべてを破壊し焼き尽くす激情の炎.心が深くつながっていた友も失い,クリストフは最大の,そして最後の精神的危機に陥り,そして,再生する・・・.それが「燃える柴」の章です.
クリストフが再生していく部分にこんな一節があります.
「神は,クリストフにとっては,・・・みずから火を放った<町>の火事を,青銅の塔の高みから見物するようなネロでもなかった.神は苦しむ,神は戦う.戦うものどもと諸共に,あらゆる悩めるものどものために.神は生命だからだ.闇のなかに落ちてひろがり,闇を飲む光のしずくだからだ」(『ジャンクリストフ』)
「燃える柴」という題名は,言うまでもなく聖書に因みます.旧約の「燃える柴」では,その中から天使が現われ,そして神が語りかけます.同様に,『ジャン・クリストフ』の「燃える柴」も,上の「光のしずく」,つまり神・命の象徴でしょう.
しかし,私の記憶の中では,いつしか,この「燃える柴」は,クリストフの燃えさかる心,クリストフを苦しめる激情の象徴になってしまいました.そのため,才市さんのこの口あいを読んで,「燃える柴」という言葉を連想してしまう.本来の意味とはまったく逆なのに.そういう意味でも困ったことです(^^;).
ただ,悩めるもののために苦しむ神は,燃え立つ私の心に入りてくださる仏と響き合うように思いました.
【補足】
才市,鈴木, 12:047: 鈴木大拙編著『妙好人浅原才市集』, ノート12の47番(p.156).用字,改行などを読みやすく改めました.
「燃焼の説法」:たとえば,増谷文雄『仏教百話』(ちくま文庫, 1985), pp.38--39.手塚治虫『ブッダ』では,この説法がおとぎ話のような形で印象的に描かれています(第5部第8章:「象頭山の教え」).
『ジャン・クリストフ』からの引用は:ロマン・ロラン(井上勇訳)『ジャン・クリストフ II』(三笠書房, 世界名作への招待10, 1967), p.523 上段.なお,青空文庫には『燃ゆる荊』と題した豊島与志雄訳が収められています.