才市が母親 弥陀仏で
才市が父親 釈迦仏で
才市が親さま 慈悲な親さま
見真大師の あかりをつけて
雑行自力の 闇を取られて
なむあみだぶの あかりをもろうて
迷いのこころ これでわかるぞ
ご恩うれしや
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
(才市さん,鈴木-04:004)
昨日は温泉津仏教会の花まつりでした.桜は満開に近く,心配していた雨も,最後の方でちょっとボツボツありましたが,象さん行列には支障なく,最大の難関(?),稚児さんも1名参加していただいて,無事,お祝いができました.写真は,記念写真の前のお色直し(?).この後に撮った写真には,お稚児さんの男の子が可愛らしい表情で写っているのですが,お見せできないのが残念.
「温泉津仏教会」からも分かる通り,花まつりは,町内のお寺が宗派を超えて合同で行います.そのため,宗派による違いなどに気付かされることもよくあります.今回は華葩(ケハ.花びらをかたどった紙片)を堂内で撒いたのですが,その仕方が宗派によって微妙に違うようで,そのあたりのお話を興味深く聞かせていただきました.そうそう,華葩などを撒く「散華」(サンゲ)を,宗派によっては「サンカ」と読むことも初めてお聞きしました.
ご法話の先生は,美術も教えていらっしゃる先生で,「500色鉛筆」で塗り絵をしました.同じ図柄でも,人によって塗り方や色の使い方が違い,随分異なった仕上がりになりました.それを見ながら阿弥陀経の「青色青光,黄色黄光,赤色赤光,白色白光」の心を聞かせていただき,実感としてよく分かりました.
また,小さな子供に牧場の牛を見せてそれを描かせると,子供によってずいぶん違う絵になるというお話もありました.ある子供は,長い舌を出して草を食べる牛の顔を正面から大きく描き,また,別の子供は画用紙一杯に大きな丸を書き,その中に牛を表わす点をたくさん描いたそうです.広い牧場に牛がたくさんいたことが印象的だったのですね.こんな話を聞くと,「みんなちがって,みんないい」に素直に頷けます.
才市さんの口あいですが,花まつりを歌ったものを探してみたのものの,今回は探し出せませんでした.お釈迦さまを歌った口あいはいくつかありましたので,その一つを掲げます(「見真大師」とは親鸞聖人のことです).因みに,親鸞聖人には,次のようなご和讃があります.
釈迦・弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり
(高僧和讃,74)
【補足】
才市さん,鈴木-04:004:鈴木大拙編著『妙好人浅原才市集』, ノート4の4番(p.44).4月の花まつりにふさわしく,「4」が4つ,きれいに並びました.これを,花まつりの口あいにしてしまいましょうか(笑).なお,例によって,用字,改行などを読みやすく改めました.
高僧和讃 74:『浄土真宗聖典 注釈版』(本願寺出版社, 1989), p.591(善導讃).
阿弥陀さまの方が母で,お釈迦さまの方が父というのは,親鸞聖人がこのご和讃に付けられた註も同じです.「向う岸に向かって歩め」と行くべき道を指示してくださるのがお釈迦さま,「こちらにおいで」と迎え取ってくださるのが阿弥陀さまと言われますので,伝統的な「父母」の感覚では,確かに,お釈迦さまが父親,阿弥陀さまが母親という感じになりそうですね.でも,この喩えはどこから始まったのでしょうか.善導大師? もっと前から? おそらく,きちんとした研究があるのでしょうが,こういう,ものの感じ方というか,精神の動きの型のようなものの由来や経緯が気になります.分かったからどう,というわけでもないのですが・・・.