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「殺さしめてはならぬ」(お釈迦様)
旧ブログ 2016年5月 4日 (水)

すべての者は暴力におびえる.すべての(生きもの)にとって生命は愛しい.己が身にひきくらべて,殺してはならぬ.殺さしめてはならぬ(『真理のことば』, p.28)

 この本の,「暴力」と題された章では,「殺してはならぬ,殺さしめてはならぬ」という言葉が繰り返されています.「殺してはならぬ」のすぐ後に「殺さしめてはならぬ」と続けられているのが印象的です.
 たとえば,「戦争に行きたくない」というのは「利己的」だと言った政治家がいらっしゃいます.しかし,自分の平和と安全を守るために他人を戦場に行かせるというのなら,その方がよっぽど利己的な気がします.そんな自己中心的な考えに落ち込みながら,自分では道徳的だと錯覚していることがよくあるので,お釈迦様は,「殺すな」に続けて「殺させるな」とおっしゃられたのではないでしょうか.

 「殺したくない,殺されたくない」というのは,人としてもっとも基本的な願いです.さらに,親しい人に人殺しなどして欲しくないし,人殺しの犠牲者にもなって欲しくないという願いも当然の願いでしょう.このような願いの実現に向かって努力するのが政治家の務めではないでしょうか.
 もちろん,殺し,殺されざるを得ない場合もあります.しかし,そのような現実を認めることは,「殺したくない,殺されたくない」という願いを否定することではありません.
 殺してはならぬ,しかし,殺さざるを得ない・・・この矛盾を個人としてどう受け止めるかが私の宗教の出発点であり,この矛盾に社会的にどう対応するかが政治の課題のはずです.この矛盾が現実のものになることを極力抑制し,この矛盾ができるだけ小さくなるよう知恵を絞るのが政治の責務のはずです.それを,単に「利己的」と切って捨てるのは,個人的には,自分の頭に角を見ながら手を合わせた才市さんにもっとも遠い人であり,政治家としては,政治家としての義務を放棄しているのに等しいと思いますが,いかがでしょうか.

 以上,一日遅れの憲法記念日素人政談でした.


【補足】
 『真理の言葉』: 『真理のことば・感興のことば』(中村元 訳, 岩波文庫, 2008).

 「戦争にいきたくないは利己的」: 「SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。」(武藤貴也,2015年7月31日 01:17 付け).一年前の発言ですが,永久保存に値する“貴重な”発言です.

 殺し,殺されないために,軍隊を保持するという考え方(いわゆる抑止論?)があることは承知しています.私は抑止論の有効性に疑問をもっていますが,それはともかく,そういう立場からなら,「だって戦争に行きたくないじゃん」という願いを実現するためにこそ軍が必要だと言い,その理由を(他のところでもいいですが)説明すべきでしょう.つまり,「戦争に行きたくない」は,議論の出発点になるはずで,「極端な利己的な考え」と切って捨てるものはありません.利己主義と批判されるべき点があるとすれば,それは別の所にあります.

コメント

先日話し合った時に言わねばと思っていたのに云えずにいました。SEALDsのことです、先月の大派宗議会で、小川一乗さんの前の教学研究所長だった 玉光順正さんが質問に立ち、昨年SEALDsから本山に安全保障法に関して共闘しませんかと呼びかけられたが、何断ったのかと問われました、答えは「そういうことをするところでは無いから」だったと思います。引用されているお釈迦様の言葉や 兵戈無用と書かれたお経をよりどころにしている宗派ですので、そういうことをいましなければならないところだと思います。先の大戦で 必勝の御文 まで作って門徒を戦場に送り出した反省が未だにされていないようです。本派はどうなんでしょうか?
市議会で閣議決定と法律成立に先立ち、総理大臣に対して慎重にするように(反対と言うと賛成が取れないので)意見書を提出しました。組内のお寺さんは今ひとつ動きが悪いな~って感じです。敗戦記念日に平和の鐘を打ったところも、数ヶ寺ありました。

SEALDsから大派の方にそういう提案があったことは初めて知りました.本派の方にもあったのでしょうか?

>先の大戦で 必勝の御文 まで作って門徒を戦場に送り出した

妙好人と戦争協力という問題がありますね.あるいは,妙好人は結局,権力に従順な人間を作るのに利用されただけではないか,という批判もあります.当たっているところもあるだけに,難しい問題です.これについて記事を書いたものの,自分でボツにしたことがあります.そのうち,また,書いてみるかもしれません.

SEALDsが声明などをいち早く出した大谷派を評価してくれたのか、逆に僧侶の側から提案したものなのかは解りません。たぶん本願寺派にはなかったのではないかと思われます。
断らずに、話し合いだけでもして欲しかったとおもいますね。話題にはなったはずです。
今月の同朋新聞に宗参議会の質問の概略が2面にわたり掲載されていましたが、このやりとりは載っていませんでした。当局側は都合の悪いことは表にださないのはどこでも同じですが・・・

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