[才市さんは]寺の法座のときも,その味わいを紙切れに書いて住職にさし出していた.安楽寺の報恩講の時,客殿で休憩中の法中のたまりに才市さんがやって来て,遠慮して部屋の中へは入らずに縁側から「こがーな(こんな)今の説教の味わでございます」と紙切れをさし出した.謙敬和上がそれを受け取って「また爺さんが,わけのわからんものを書いてきたなー」といって他の法中に見せられた.それをみんなで読んで感心していた(特留誓現師談)
(『才市さんの世界』p.211)
言うまでもなく,本当に「わけのわからぬもの」なら,他の法中(僧侶)に見せたりはしなかったでしょう.前回も記したように,謙敬が才市を半ば身内のように感じていたことを窺わせる言葉のように思えます.
自分の身内を「愚妻」と言ったり,贈り物をするとき「つまらないものですが」と言って差し出したりしますが,謙敬が,「わけのわからぬものを」と言いながら才市さんの口あいを他の法中に披露したのもそれと同じではないでしょうか.
【補足】
『才市さんの世界』:『妙好人・才市さんの世界』, 本願寺出版部, 昭和56年[1981].
最近は,身内にであっても,悪口を言ったりせずに誉めるべきだ,とか,自己PRが大切,というふうに変わってきているようですね.贈り物をするとき「つまらないものですが」というのはかえって失礼だ,という意見をインターネット上で見たこともあります.「また爺さんが,わけのわからんものを・・・」という言葉の意味もだんだん分からなくなってくるかもしれません.