前回,東井義雄氏の詩を引用しましたが,その,東井義雄氏が著書の中で次のような詩を引用なさっています.
人は生まれることによって
生命を生じたのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めのなかに
汲みとられたのである
人は死ぬことによって
生命がなくなるのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めから
天地一杯のなかに
ばら撒かれたのだ
(内山興正「私の中に汲み取られた命」)
善太郎さんの「体のうるおいは 水のかりもの 息の出入りは 風のかりもの」という言葉や,「地水火風のかり物を,とくに返弁仕り」という骸骨の歌をご紹介したことがありますが,「私の中に汲み取られた命」という言葉で,私の命も,借り物かもしれないと思いました.
そういえば,「いのちが宿る」という言い方がありました.いのちが私に宿り,今,私を生きている・・・.
【補足】 内山氏の詩は,東井義雄『拝まない者もおがまれている』(光雲社,1986, 1991)pp.217--219 に,内山興正『正法眼蔵・生死を味わう』(柏樹社)から引用されているものです.
破旬さま,こんばんは.本当にお久しぶりです.
お忙しいことと思います.
私の方はヒマと言えばヒマで,なんともはっきりしない状況です.でも,ネットの方は,時間がないわけではないのですが,破旬さんと同じく,なんとなく遠ざかっています.
「体を作っている粒子」で,ある人が,蔵書の一冊一冊を,体を作っている粒子にたとえていたのを思い出しました(突飛な連想ですみません).
本棚の本は少しずつ入れ替わっているけど,持ち主の個性を保っている.しかし,持ち主が死んでしまえがバラバラになる.だけど,滅びるのではなく,また別の人の蔵書の一冊となり,その人の個性・思いを表現する・・・.
こういう感じは,電子書籍では出てきませんね.
温泉津においでの際は是非お寄りください.来月は,多分,自坊にいます.
まったく関係ない話ですが,今日,十数年ぶりに親しくしていただいていた方とお会いしました.名古屋の方です.破旬さんともお会いできるとうれしいのですが.
大変ご無沙汰しておりました。
ネットからは別に意識しているわけではなく
遠ざかっていました。junkさんのブログも覗かずに
いましたら、たくさん書き込みがされていたんですね
まとめて読ませていただきました。
>天地一杯の生命
ですよね。物質を細かくしていくと最終的には
粒子になると以前聞いたことがあります。
(理系では無いので不確かですが)
ということは 私も子供たちも友人も
犬も猫も水も石も・・・・・・・・
ということになりますね。自分の体を作っている粒子も
常に入れ替わっていて、少し前の自分とは同じものでは
ないということになります。
死ねば火葬されて粒子に戻ることになるんでしょうか?
でも、私が造られたのは偶然ではなく、何らかの力(願い)
がかけられていて、その力を 阿弥陀 と呼ぶのだと
最近考えるようになりました。
水も石も 阿弥陀さんの願いの産物なのだと・・・
その力のかけられている間は 精一杯 私をしなければと
思います。
来月は温泉津に一度お邪魔しようかな?と思っていますが
どうなりますやら、お会いできれば嬉しいのですが・・・
ではまた・・・・破旬