久しぶりの書き込みですが,仏教とも才市さんとも関係ない話です.
『ベニスの商人』の物語はご存知と思いますが,おおよそこんな物語です.
ある青年が,金貸しシャイロックから金を借り,返せないときには自分の身体から肉一ポンドを切り取って返済に充てるという契約書にサインしました.実は,シャイロックはこの青年に怨みがあり,復讐をたくらんでいたのでした.そして・・・青年は不慮の事故で金が返せなくなり,合法的に殺されそうになります.
ここで,才媛ポーシャが裁判官に扮装して登場します.ポーシャは,いかに残忍な契約でもサインがある限り契約は有効であり,必ず実行されなければならぬと宣言してシャイロックを喜ばせます.しかし,彼女は,こう続けるのでした:
さぁ,このナイフで,肉一ポンドを切り取るが良い.ただし,契約に記されていない血を一滴でも取ってはならぬ.血を流したら契約違反である.また,切り取った肉は一ポンドぴったりでなければならぬ.わずかに重くても軽くても契約違反である.肉を切り取るとき,このような契約違反を犯した場合は,命をもって償え・・・.
そんなことはできないと肉一ポンドを切り取ることを諦めたシャイロックに,ポーシャはさらに追い討ちを掛けます.契約を実行しないものは厳しく罰せられなければならない.命は助けるが,全財産を没収する,と.
いかがでしょうか.
『ベニスの商人』を読んだのは高校の頃だったと思いますが,どうも好きになれませんでした.「きっとこんな夜だった」と始まる,主人公とその許婚との(?)掛け合いなどはたいへん印象に残ったのですが・・・.特にこの結末は何か変だと感じていたのですが,ずっと後になって,何が間違っているのかをある法律学者が論じているのを読み,すっきりしました.
その法律学者が言うには:
ある地主が,土地の一部を畑として貸すという契約を結んだとしよう.その畑には,地主の私有地を通り抜けないと入れない.そこで,畑を借りた農夫がその私有地を通り抜けようとしたところ,「畑を貸す契約は結んだが,私有地の通行を許可する契約は結んでいない.したがって,通行は許さない」と地主から言われたとする.このとき,この地主の主張は不当である.私有地を通り抜けないと畑に入れない場合,畑を貸す契約を結んだときに私有地の通り抜けも許可したとみなされるべきである.
人肉裁判も同様である.肉一ポンドを切り取るという契約を認めるた段階で,血が流れることも認めたとすべきである.肉を切り取っても良いが血を流すのは契約違反だというポーシャの判決は詭弁である.では,青年は肉を切る取られるべきか.そうではない.借金のカタに肉を切り取るという契約自体が公序良俗に反し無効である.
ポーシャがすべきことは,契約の成立を認めた上で詭弁を弄することではなく,契約の成立自体を否定することであった・・・.
今日,NTTドコモのお店に苦情を言いに行ってきました.詳細は省略しますが,あることを依頼してその通りの工事(のようなこと)をしてくれたのですが,そのときの契約書の内容が間違っていて,その間違いに基づいて課金されていたことが判明したのです.そこで,その訂正をお願いしにいったのですが,ドコモさんの返事は:契約書に署名があるから,この契約書は有効で,それにしたがって手続きをすすめたドコモには落ち度はない.契約の訂正には応じられないし,課金の修正もできない・・・.
こちらが言った通りの工事(のようなもの)をしてくれていますし,その他の状況から考えても契約書の方に作成ミスがあることは明らかなのですが,署名があるからこの契約書は有効と言い張られるのですね.まさに,シャイロック.署名さえあればどんなに変な契約でも有効ってわけです.
で,つい私もポーシャのようなことをいってしまいました.よかろう,この契約書は有効である.しかし,ドコモさんは契約書に書いてないことを行い,契約書に書いていてあることは実行していない(つまり,工事はこちらの依頼通り実施してくれたので,契約書が正しいとすれば,工事の方が間違っていたことになる).その点はどうなのよって.
そう言っている最中に,いかんなぁ~,と反省はしたんですけどね.“契約書に書いてないことをしたからけしからん”ではないのです.契約書そのものがおかしいのです.ですから,すぐにそう補足・訂正したのですが,そんな補足・訂正をしてると発言の迫力がそがれること甚だしい(^^;),しかも,署名があるからこの契約書は有効だってしつこく繰り返されると,つい,また,ポーシャになっちゃいました.やれやれ.
【補足】
『ベニスの商人』は30年以上前の記憶で書いています(あんまり好きでないので,読み返していない).
ある法律学者が論じている,というのはイェーリング『権利のための闘争』(岩波文庫)だったように思いますが,これも20--30年前の話なのでちょっと怪しい.原著者の注にこのような議論があったような・・・.オボロな記憶です.違ってたらゴメンナサイ.
「工事(のようなもの)」というのは,工事ではないのですが,携帯電話端末に変更を加える作業です.
契約書に書いてないことやっちゃって,その点どうなのよ! という問いかけ(はっきり言えばイヤミなのですけどね)に対する答えは,即答できないので後ほど返事する,でした.
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
就職活動さま コメントありがとうございました.うっとしい話題ですが,楽しんでもらえたのなら嬉しいです.
就職活動の真っ最中ということでしょうか.ストレスの溜まる毎日だと思います.どうぞ,“ため過ぎ”になりませんようにご自愛ください.
さて,わたしの記事は,NTTドコモへの,ま,一種の悪口なのですが,悪口・批判といえば,第三者が読んで楽しい悪口・批判がありますね.古い例で恐縮ですが,林達夫があるモンテーニュの訳を批判したものとか,先にお亡くなりになった丸谷才一氏がジョイスの訳を巡って論争したときの文章など.いずれも,そうとう激烈な言葉で相手をコテンパンに伸している感じですが,読んでいると爽快です.
一方,内容はまったく正当なのに,読んでいると何となく不愉快になる批判,悪口というのもあります.この違いはどこから来るのでしょう?
悪口なんかは言わないに越したことはないのですが,せめて,第三者が読んで楽しい悪口が書けるようになりたいというのが,林達夫氏を読んで以来の念願です.
自己コメント:イェーリングに関する補足と訂正.
『ベニスの商人』について論じられているのは,イェーリング(村上淳一訳)『権利のための闘争』, 岩波文庫, pp.93--97 でした.ただ,畑を耕す契約・・・というたとえ話は見当たりませんでした.かわりに,こんな文章がありました.
ポーシャの論法を認めるなら,
「地役権者に通行権を認めながら,地上に足跡を残すことを --- 地役権設定契約に明記されていないという理由で --- 禁止することもできるであろう」(p.96)
畑のたとえはどこから出てきたのだろう(^^;)