寺田寅彦に「金曜日」という短いエッセイがあります.1930年ころ,つまり,日本でテロが頻発した頃に書かれたものです.
総理大臣が乱暴な若者に狙撃《そげき》された。それが金曜日であった。前にある首相が同じ駅で刺されたのが金曜日、その以前に某が殺されたのも金曜日であった。不思議な暗合であるというような話がもてはやされたようである。
[中略.しかし]
人々は通例同様の事件でしかも金曜以外の日に起こったのは、はじめから捨ててしまって問題にしないのである。そうして金曜に起こったのだけを拾い出して並べて不思議がるのが通例である。この点が科学者の目で見た時に少しおかしく思われるのである。今度の場合が偶然ノトリアスに有名な「金曜」すなわち耶蘇《やそ》の「金曜」であったので、それで、「曜」が問題になり、前の首相の場合を当たってみると、それがちょうどまた金曜であった。そうして過去の中からもう一つの「金曜」が拾い出されたというのが、実際の過程であろう。
[中略]
自分の注目し期待する特定の場合の記憶だけが蓄積され、これにあたらない場合は全然忘れられるかあるいは採点を低くして値踏みされる[のである]
ある理論を証明しようと100回実験を行い,その中から理論と合致する結果だけを10個選び出して,「これで実験的に証明された」と言えば,だれでも首を傾げますね.「残りの90回の結果はどうなったのだ」と.それと同じことをやっているわけです.
厄介なのは,そういう恣意的な選択が自覚されにくいことです.普通,暗殺事件は覚えていても,それが何曜日だったかは意識・記憶されません.ところが,金曜日に起こったときだけ,「魔の金曜日」との関連から,「金曜日だった」と意識・記憶される.その結果,金曜日が魔の日である“証拠”が蓄積されていく・・・.
人の目は非常に選択性が強く,見たいものだけを,ほとんど無意識の内に切り取って見ています.でも,この選択性が働きすぎると錯覚が生じます,無秩序なシミの中に人の顔を見てしまう.
人の精神も選択性が非常に強く,“意味あるもの”だけ巧みに掬い上げることができます.でも,それが働きすぎるとやはり錯覚が生じる.占いや予言が“当たった”というのは,たいていはこの手の心理的錯覚が働いているように見えますが,いかがでしょうか.
【補足】
寺田寅彦の「金曜日」は,「昭和六年一月,中央公論」という注記のある「時事雑感」の中の一編です.私は岩波文庫で読んだように思いますが,今回は,青空文庫に収められているテキストをお借りしました.
なお,寺田寅彦はこのエッセイ中で,錯覚ではない可能性のある金曜日の連続についても触れています.このあたりに,寺田の精神の柔軟さを感じまました.