おにがくるか じゃがくるか
しらずにくらす おやのふところ
さいちや よい気でなむあみだぶつ
ちちをのみのみ
おやのかお見て なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』, p.79)
1,2週間前,あるお寺の報恩講にお参りしたとき,2歳くらいの男の子が,「おかあさん,おかあさん」と母親を探してお寺の中を歩いていました.と言っても,迷子になったわけではありません.法中(坊さん)の控え室にいる父親と,本堂や庫裏にいる母親との間を行ったり来たりして遊んでいたのです.だから,母親がいないという不安な感じはなくて,こうやって呼んでいれば必ず会えると安心して呼んでいる.また,「おかあさん」って言う照れもなく,ごく普通に「おかあさん」と声に出している.本当に素直な声が印象的でした.
鬼が来ようが蛇が来ようが,親の懐に入っていれば心配ないので,そんなことは知ったことではない.ただ安心して親の名を呼んでいる・・・.「親(阿弥陀さま)の顔見て」才市さんが称える南無阿弥陀仏は,あの男の子の「おかあさん」のように,テレも衒いもない素直で落ち着いた「なんまんだぶ」だったかもしれないなぁと思いました.
【補足】
「2歳くらいの男の子」なんて “だれか知らないどこかの男の子” のような書きましたが,実は名前も知っています(^^).
前回,間違えて1日早く投稿してしまったら,なんだか安心して(?),土曜の晩は,投稿のことをきれいさっぱり忘れていました(^^;).
>ちちをのみのみ
60才を目前にした私はさすがに おちち は飲んでいませんが
死ぬまで 法乳 は飲んでお育てをしていただきます。
以前どこかの法話の講題が「法乳」とありました、残念ながらそれを
聞くことができませんでしたが、この 法乳 という言葉が気になります。
いろいろ調べて見ましたが(webで)ヒットするものが無かったと記憶しています。今回このブログで才市さんの口あいを読んで法乳がまた気になりはじめました。なにかご存知なことが有りましたらご教示ください。
まるで子供のような表現ですが、仏教は素直に子供になる教えなのかもしれませんね。