世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず
(阿闍世の言葉)
父親を殺し,王位を簒奪した阿闍世王は,自分の犯した罪の意識に苦しみ,地獄堕ちの予感に怯えていました.そんな阿闍世に対し,釈尊は,まず「阿闍世王の為に涅槃に入らず」と語りかけ,月愛三昧に入ります.それにより:
罪に縛られていた阿闍世の心に,仏の願心が満ち満ちて,ついに阿闍世は無根の信をおこした.(p.217)
あれほどの自分の罪過を悔い,地獄に堕ちることを恐れていた阿闍世が,自ら地獄に堕ちることになっても,人々の悪心を破るために生きたいと宣言した.罪への執着,地獄の恐れが,このまま地獄に堕ちることをも恐れない,愛他の願心に転成したのである.(p.220)
釈尊の願心が阿闍世の心に満ち満ちて,阿闍世の悪心は,罪をありのままに自覚した懺悔の心と,あらゆるものの安穏を願う心に転じられていったのである.(p.221)
(鍋島『アジャセ王の救い』)
「衆生の・・・悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて[も]・・・苦とせず」という阿闍世の言葉は,「阿闍世王の為に涅槃に入らず」という釈尊の言葉と照応するもので,釈尊の願心が阿闍世の心に満ち満ちたことを表わしています.こうして,釈尊の願いが阿闍世の願いとなったとき,すなわち,お釈迦様のように生きたいという願いに心満たされたとき,阿闍世王は救われていったのでした.
前回は,地獄への恐怖ゆえに神を愛するのではない,神の無償の愛ゆえに,私も神を無償で愛する(だから,その,神の無償の愛さえも,こちらから要求するのではない)という西洋の信仰をご紹介しました.阿闍世のこの言葉は,どこか,それに通じるものがあるように思えますが,いかがでしょうか.
【補足】
阿闍世王の言葉:『浄土真宗聖典 注釈版』 p.287.
最近,文庫本の『教行信証』を入手しました.右ページに原文(読下し),左ページに現代語訳を載せたもので上下2巻です(『顕浄土真実教行証文類』上・下, 本願寺出版社, 2011).阿闍世王の言葉は,この本では,上巻の518頁,521頁です(左右のページが完全には対応していない).
鍋島『アジャセ王の救い』:鍋島直樹『アジャセ王の救い』(方丈堂出版, 2004年).