わがまよい
ふるさとは
なむあみだぶつ
(楠三, 2-59)
ごく短い口あいですが,1行目と2行目以降のつながりが分かりにくいような気がします.実際,この口あいは1行目でいったん切れるのではないでしょうか.
『歎異鈔』で,“お念仏を称えてもいっこうに喜ぶこころがないのはどうしたことか”と問われた親鸞聖人は,「親鸞もこの不審ありつるに,唯円房おなじこころにてありけり」とお答えになり,そして,
ここで聖人は,「よくよく考えてみると・・・」といわれています.文章として読んでしまえばなんでもないようですが,実際の対話では,ここで長い沈黙があったのではないでしょうか.唯円房の問いを,わが身に引きうけて,みずからの内面に沈潜していかれる深い沈黙の時が流れたことでしょう.二人を包む緊迫した沈黙が,やがて破れて,静かに語りだされたとき,救われようのない愚かなものが,そのまま包まれている絶対無限の大悲の妙境涯が開けていったのでした.
(梯, p.249)
この「深い沈黙」が,才市さんの口あいの1行目と2行目の間にもあるような気がします.
わがまよい (親鸞もこの不審ありつるに,唯円房おなじこころにてありけり)
・・・沈黙・・・
ふるさとは なむあみだぶつ (いよいよ往生は一定とおもひたまふなり)
【補足】
この口あいは楠恭編『妙好人才市の歌 全』の三の第2ノート, 59番)に収められています(2015.03.02 修正・追記)
梯:梯 實圓『歎異鈔 聖典セミナー』(本願寺, 1998).
『歎異鈔』の該当箇所を掲げておきます.
(9) 一 念仏申し候へども,踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと,またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは,いかにと候ふべきことにて候ふやらんと,申しいれて候ひしかば,親鸞もこの不審ありつるに,唯円房おなじこころにてありけり.よくよく案じみれば,天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを,よろこばぬにて,いよいよ往生は一定とおもひたまふなり.よろこぶべきこころをおさへて,よろこばざるは煩悩の所為なり.しかるに仏かねてしろしめして,煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば,他力の悲願はかくのごとし,われらがためなりけりとしられて,いよいよたのもしくおぼゆるなり.[後略]
ご無沙汰いたしました。
コメントをサボっているうちに五つも書き込みをされていましたが、読むのはチャント読んでおりました。
人の振り見て我が振り直せ(だったかな?)ということばも有るように
言葉や行動を見ることによって、自分の気付かなかった部分を知らされる
ことは ありますね~。
暑くなってきました、お互い若くないので体調には気をつけましよう。
お元気で