「生死を超える物語 仏教死生観デジタルアーカイブ研究閲覧システム」展(龍谷 パドマ)のご紹介,最後は,一休さんの描いた骸骨の話を.
「一休骸骨」は,数年前にやはり「パドマ」であった展示会で見ましたが,今回は,デジタルアーカイブに納められ,開会式でそのデモンストレーションがありました.骸骨が宴会やら葬式やらをしている場面が次々とスクロールするなか,2体の骸骨が寄り添っている絵がありました(こちらの絵の左側).書き添えてある歌から男女であることが分かるとのこと.
こんな絵ですと,普通は,“皮一枚下は糞袋,最後は骨になってしまうのに,男女の情愛に惑わされ・・・”と,寄り添っている姿を否定的に捉える話になりそうなところですが,解説をしてくださった鍋島先生は,この絵について肯定的な言い方をされました(と思う).え,っと思ったときにはもう次の話に移っていたのではっきりしたことは覚えていないのですが,“悲しみから生まれる絆で結ばれ,悲しみに寄り添い支えあう姿”というようなことをおっしゃったように思います(かなり曖昧.違っているかもしれません).
そういう肯定的な言葉を聞いて,ある物語の一場面を思い出しました.荒れ果てた墓地の草堂に泊った女性が明け方に見る夢です.
古き骸骨あつまりて・・・この骸骨ども,一度に手拍子をうちて,同音にうたふ.「抑々《そもそも》我等と申すは,地水火風のかり物を,とくに返弁仕り,六賊煩悩のたねをたち,十悪の里を出て,もとの古郷に立ち帰り,人間の八苦をよそにみるぞうれしき.」とたからかにこそうたひけれ・・・
(「二人比丘尼」)
「一休骸骨」も,怖いとか空しいというよりも,むしろ,どこか飄々としているような感じです.鍋島先生のお話とはちょっと意味合いが違うかもしれませんが,骸骨を肯定的に受け取ることもできると改めて思いました.
こんな書き方をすると,大切な人を失った方の悲しみを他人事として見ているように聞こえるでしょうか.そうかもしれません.ただ,私自身が身近な人の死に出会ったとき,親鸞聖人のご和讃
煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ
にずいぶん慰められました.上の骸骨の歌(?)はこのご和讃に通じるところがあるような気がします(もっとも,「人間の八苦をよそに見る」と言うからには,「二人比丘尼」の「骸骨ども」は,阿弥陀さまのお浄土の住人ではないのかもしれません).
【補足】
“悲しみから生まれる絆で結ばれ,悲しみに寄り添い支えあう姿”:今回の展示の図録に収められている「東日本大震災の東北を訪ねて」にある言葉をお借りしました.
「二人比丘尼」:鈴木 正三「二人比丘尼」. 澁澤 龍彦 編・解説『幻妖: 日本文学における美と情念の流れ』(現代思潮社, 1974)所収(pp.272--297). 引用は pp.278--279から.
今回久しぶりに読み返したところ,この物語のネタ本として「一休骸骨」の名が上がっていました.きれいに忘れていていて,数年前に「パドマ」で見たときは,一休さんにこんなものがあったのかなどと思っていました.ヤレヤレ・・・.
本文中に引用した「一休骸骨」へのリンクは,「龍谷大学人間・科学・宗教・オープン・リサーチ・センター」(CHSR)のサイトへのリンクです.なお,この「一休骸骨」のリンク先から「トップページ」の戻ると「2002年度~2009年度のサイト」の「トップページ」に戻ります.この「トップページ」とは別に,現在のトップページがありますのでご注意ください(組織改変に伴って,ウェブサイトを新しく作り直したらしい).
ついでに,「パドマ」は,龍大深草学舎の横(京都市伏見区深草塚本町67)にある「至心館」の2階です.すぐ右隣に,やはり龍大の「紫光館」というのがあって,こちらには「人間・科学・宗教総合研究センター」が入っているようです.お間違いのないように(私は間違えました^^;).