ぐちが起きたよ また起きた
ぐちがないなら 御恩も知れぬとゆうて《言って》あさまし
とゆうて《言って》あさまし
わが親の慈悲はよい慈悲で
ぐちを御恩にまるめ まるめられ
御恩うれしや なむあみだぶつ
(鈴木, p.67)
一念/多念,念仏/信心のことを書く予定だったのですが,同じような話が続いたこともあり(つまり,他の理由もあって^^;),この話についてはちょっとお休みします.
代わりに,先日どこかで読んだ「アミダ如来さまに出迎えていただいて暮らしておられるから、グチもお念仏も出る」について.
これは,「ぐちがでたでたまたでたよ,ナムアミダブとつろうて出た」という口あいと同じ味わいなのでしょうが,次のような話を思い出しました.
[同居人は,]車を運転するときならもっと直接に役に立つ.強引な割り込みなどに対して,誰か脇に乗っていれば「バカヤロ,死んじまえ」とこっちが言い,「そうだ,死んじまえ」と同乗者が言ってくれて,それで憤懣は解消する.一人だと運転そのものが乱暴になる.
(池澤,pp.96--97)
確かにそうですね.まぁ,場合によっては二人で盛り上がって(?),ますます腹が立つということもありますが,大体の場合は,これで落ち着きます.それに対し,一人だと,「バカヤロ,いや腹を立てたら危ない,でもバカヤロ」などと余計に腹がたってきます.
「アミダ如来さまに出迎えていただいて暮らしておられるから、グチもお念仏も出る」というのもこれに似て,阿弥陀さまが聞いてれるからぐちも出てしまうけど,阿弥陀さまが聞いてくださるからそれで収まってしまう.阿弥陀さまは,まさか「バカヤロ,死んじまえ」とはおっしゃらないでしょうが,グチが出たら火消しに駆けつけて叩き消すというより,グチを上手に引き出して丸めてしまう・・・.そんな意味かなとも感じましたが,さて,いかがでしょう?
【補足】
鈴木:鈴木大拙編著『妙好人浅原才市集』.
池澤:池澤夏樹『むくどり通信』(朝日文芸文庫, 1997).
「アミダ如来さまに出迎えていただいて暮らしておられるから、グチもお念仏も出る」という文章は,ごく最近どこかで見て,メモしておいたものです.Hさんのコメントと思っていたのですが,今,ちょっと探し出せませんでした.Hさんじゃありませんでしたっけ?
才市さんの歌で「とゆうて《言って》あさまし」が二度繰り返されています.ここのところ,ちょっと意味が取りにくいように感じたのですが,次のような意味でしょうか.
“ぐちがまた起きたが,ぐちがないなら御恩も知れぬ・・・と言って自分のグチを正当化するとは浅ましい・・・という言葉もウソで,卑下慢に酔うとは浅ましい,というのもやっぱりウソで・・・などと,ひたすら自分の内に落ち込んでいく私を包むお慈悲があった”.
釈破旬さま,(正真正銘の)こんばんは.
失礼しました.“Hさん”なんて書き方もどうかと思ったのですが・・・.
少し前のコメントで,“阿弥陀さまに聞いてもらう”という意味のことを書いていただき,それが印象に残っていたので,破旬さんだったような気がしたのですが,どこか別のところで見たのですね.
こうやって一年ちかく言葉を交わしていると,考えることがシンクロしてくるのでしょうか(いや,破旬さんと私がシンクロするのではなく,二人とも阿弥陀さんとシンクロしている・・・と思いたい ^-^;),今回の破旬さんのコメントは,そろそろアレについて書こうかな,と思っていることとちょうど重なりました.そういうわけで,次回はそれについて書いて,今回のお返事とさせていただきます.
PS.夜明け前に「こんばんは」ということは,徹夜ですか? お身体をご大切に.
期待していますよ!!
ご飯を動力源とする目覚まし時計が隣で寝ていますので、夜中に1~3回
鳴り出すのですよ。その都度私もトイレ起床するので、強制的に頻尿に
させられています。この目覚まし時計君、我が家に出戻ってきて早3年をすぎました。よく働いてくれます。しんどいですが・・・
webというのは蜘蛛の巣のことだそうですが、阿弥陀さまは普く世界中の衆生とダイレクトにホットラアインを接続してみえますので、junkさんと私はアミダプロバオダ-によって繋がれているようですね。どなたもこのプロバイダ-をどんどん利用してもらいたいですね。
こんばんは(もうすぐ夜明けなので おはよう かな?)
Hさんが小生ならたぶん 違うと思います but かなり無責任な人間なので確証無し・・・
身口意の内 身は正直な存在ですが あとの二つはとてもやっかいな
代物ですね、意に促されて 愚痴 がバンバン口から出てきますし、愚痴
ならまだましで 直接相手を傷つける言葉も出てしまいます。
このことを止める事は出来ませんが、仏法を聴いたお陰か「これを云ったら相手が 傷つくだろうナ」と 云う前に一瞬思える時間が持てるようになりました。しかし、口からは出てしまいます。後は慚愧のみであります。
そういえば 同居人とずいぶん一緒に怒ることができなくなって 長くなります。あさまし あさまし と云い続けるのが真宗門徒の日暮しのような
気がします。あさまし が出てくださることが 有難い・・・
才市さんは いいですね~