ひといき ひといきが
こん生《今生》の いとまごい
また出るいきが みらいかな
うれしや うれしや
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 pp. 224--225)
正月早々,「今生の暇乞い」なんて縁起でもないとお怒りになる方はこのblogなんかご覧にならないと思いますが・・・.
出づる息は入るをまたぬ浮世なり
(『蓮如上人聞書』198)
さて,才市さんのこの歌は,先にご紹介した「朝は,ひと朝ごとに美しい」という言葉に通じる味わいがあると思います.この言葉は年老いた修道女の科白でしたが,今,この一瞬,一瞬も私に働き続けている大きな力を知らされたとき,このような味わいも生まれるのではないでしょうか.
南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ,念々みな南無阿弥陀仏なり.されば出づる息入る息も,仏の功徳をはなるる時分なければ,みな南無阿弥陀仏の体なり.
(『安心決定鈔』【6】)
【補足】
あけましておめでとうございます.旧年中はありがとうございました.このblogを始めてほぼ1年になります.いつまで続くかと思いながら始めましたが,お蔭様でなんとか続いています.今しばらくこの形で続けますので,本年もよろしくお願いします.
釈破旬さま
昨年末にコメントを頂きながら,お返事もせずに失礼しました.身辺で大きな変化があり,いろいろありがたいご縁も頂いたのですが,まだ
私の中でこなれていません.そのうち,ご紹介したいと思います.ま,ぼちぼちいこか,ということで(と言っても,上の文とは矛盾していないつもりです
が・・・).
昨年は本当にありがとうございました.破旬さんと出あえたことがこのblogを始めて一番大きいことかもしれません(“インターネットで出会った”なんて言うと,なにやら怪しげ・・・ ^_^;).今年もよろしくお願いします.
『蓮如上人聞書』:『蓮如上人御一代記聞書(末)』198 (『注釈版 聖典』p.1294).
(198) 一,善従申され候ふとて,前住上人(実如)仰せられ候ふ.ある人,善従の宿所へ行き候ふところに,履をも脱ぎ候はぬに,仏法のこと申しかけられ候ふ.またある人申され候ふは,履をさへぬがれ候はぬに,いそぎかやうにはなにとて仰せ候ふぞと,人申しければ,善従申され候ふは,出づる息は入るをまたぬ浮世なり,もし履をぬがれぬまに死去候はば,いかが候ふべきと申され候ふ.ただ仏法のことをば,さし急ぎ申すべきのよし仰せられ候ふ.
『安心決定鈔』:『安心決定鈔(末)』【6】(『注釈版 聖典』p.1391).
あけまして おめでとう ございます。
加えて本日は小生の 58回目の誕生日。家族は誰一人お祝いを言いません(たぶん忘れている)が、日本中で 日の丸を掲揚して、寺では
お祝いの鐘を鳴らしてお祝いしていただいていると、勝手に喜んでおります。
以前、庭の大きなケヤキの木のおばあさんのお話をしましたが、その話を聞かせてくれた先生(10歳ほど年下の方ですが)と夜遅くまで飲む機会がありました。彼は50年前の大遠忌の年に生まれた方で、今回の750回忌が嬉しくて仕方がなかったようです。また名古屋別院の教化センタ-の
主幹という、若手僧侶の育成の責任を持つ役職にも付かれているので一層リキが入っていたようです。そんな姿をみて父上の前住職が「浮かれていては いけないよ!!」と一言われたそうです。50年に一度の大事業ですが、とかくイベントに目が行きます。現在の寺や門徒の状況を見ると大変な曲がり道に居るような気がします。自分の足元をしっかり見て今年を
過ごさねばと思っています。
今年も悩みの種をたくさん蒔いて下さいね。よろしくお願いいたします。
しつこく追伸;その先生の父上、癌が転移してかなり体調も良くないそうで
最後の力を振絞って息子さんや門徒さんに伝えようとされている由、「臨終的存在を生きる」がその先生の今年のキ-ワ-ドだそうです。いま吸った息を吐くまでのこの命、心して生かせて貰いましょう。
長文失礼!!