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邪見の角が はえたまんまで
旧ブログ 2010年10月 6日 (水)

あさましの
じゃけん《邪見》のつのが
はえたまんまで
おやにとられて なむあみだぶつ
なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 p.108)

 これは才市さんの肖像です(クリックしてみてください).角のある肖像 軸物になっている全体の様子は,前回の記事をご覧ください.
 真宗にご縁がない方がこの絵をご覧になると,不審の念を抱かれることもあるようです.“本当に角が生えていたのではなく,悪い心を表している”はいいのですが,でも,“角が生えているなら,もっと怖い顔をしているはずだ”,あるいは逆に,“こんな穏やかな表情で仏様に手を合わせているのだから,角は取れてないとおかしい”と.

 “角ほぎに寺に参る”という言い方があるそうです.お寺に参って心身とも清浄になり,心の角を取ってもらうという意味でしょう.しかし,お寺に参るくらいで取れる角なら世話はないのでして,実際は,角が取れたと思うのはほんの一瞬,お寺から帰ると元に戻ってしまう.これじゃお寺は清涼飲料水です.まぁ,お寺は苦しいときの気休めでよろしい,なんてお考えのかたもいらっしゃるようですので,それで良い方はそれで十分なのかもしれませんが.
 でも,厄介なのは,角が取れたぞって優越感を持ってしまうことがあることです.相手をあからさまに見下す人さえいる.なにか偉くなったように錯覚してしまうのでしょう(と,他人事みたいに書いてますが,私もこのblogを書いていて,今回はうまく書けたな,なんて思うことがあると,昼に夜が続く如く,オレも捨てたもんじゃない,なんて思いがくっついて出てきます.やれやれ).
 最悪なのは,信心を得たから,信仰が深いから,自分の方が絶対正しい,自分に反対する奴は悪だと思って,普通なら考えられないようなひどいことを平気でやってしまうことです.偽の情報に嬉々として騙され(?)イラクに侵略した大統領は,ホワイトハウスで聖書研究会を開いていたとか(もっとも,さすがに米国教会は,どうも変だと感じていたようで,代表の方が大統領に会見を申し込まれることもあったそうですが).その一方で,(おそらくは)イスラムの正義の元に大量殺人も許されると信じる人による自爆テロ.

人は信仰によるときほど,嬉々として残酷な行いをすることはない

 宗教さえも,自己正当化に利用する,そんな私たちのどうしようもない心の角をはっきりと照らし出すのが仏様の智慧の光です.そして,そんな私たちを,どうしもうもないなら,そのままで救おうというのが仏様の慈悲の光です.その慈悲の光に包まれたとき,私たちの心身は和らぎ,おのずと静かに手を合せる・・・それを才市さんは,「邪見の角がはえたまんまで親に摂られて南無阿弥陀仏」と歌ったのでした.

【補足】
「人は信仰によるときほど・・・」:パスカルの『パンセ』にあった言葉だと思いますが,いま,ちょっと探し出せませんでした(『パンセ』じゃなかったような気もしてきました・・・).

コメント

俺もまんざらなもんではないな!!
昨年の本山報恩講での 悔改批判・門徒感話の依頼を受けたとき
思いました。大派の悔改批判は本派のものとは違い、まず門徒が自分の
信心を感話として述べ、その後その話を受けて僧続が批判(感想)をするという形式をとっています。7日の講中、御伝抄拝読とご満座の日を除いて5日間行われます。全国30教区持ち回りですので6年に一度・一人しか回ってきません。
よく考えてみると、批判される立場ですので、喜んでいる場合ではないのです。結局、自分のおごりを慙愧することから話を始めさせていただきました。11月末の寒い季節であるにもかかわらず、御影の前に立ったとき
なんともいえない暖かさを感じましたよ。まるで、聖人が「よく来たな!」
と云われたような・・・
これってやっぱり 自慢話でしたね、スミマセン
 なんまんだぶ
角ばかりでなく 天狗のように鼻まで高くなっておりました。

 以前,(破旬さんのblogで?),改悛批判にでられたという話をちらっとお聞きし,どういうことかちょっと分からなかったのですが,そういうことだったのですね.素晴らしいご縁にあわれたのですね.

 蓮如上人が,“自分の書いたものではあるが御文章はすばらしい”とどこかでおっしゃっていましたが,そうやってすっと言えるようになりたいものです.才市さんも,自分の歌を自分で喜んでいたようです.自分が書いたものではあっても自分のものではない,阿弥陀さまの言葉だと聞くから,素直にそういえるのでしょうね.

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