どおり りくつをきくじゃない
あじ《味》にとられて あじをきくこと
なむあみだぶつ
(楠2-4 p.116)
才市さんの歌集をパラパラ眺めていたら,上の歌が目にとまりました.あ,これは,と思い出したのが先日頂いたコメントです.というか,そのコメントを読んでいたせいで,この歌が目にとまったのでしょう.
「疑い心で覚えて聞いていた頃は、苦しいだけで味がありませんでした。
そのまま聞いて味わえば、忘れた分だけ味が残りますね。」
‘あんたの言うことは眉唾だ’と思いながらお聞きになっていた・・・おそらく,そういうことではないのでしょう.人様の心中をあれこれ忖度するのは失礼かとは思いますが,道理・理屈を理解し覚えようと必死で聞いていらしたのではないでしょうか.しかし,そのような聞き方は,裏を返せば,自分が理解しない限り受け入れられないという聞き方,あるいは,難しい教義を覚えないと救われないという聞き方であり,まさに「疑い心」であった・・・.
最初は,コメントの後半に気をとられて,‘疑い心’を聞き流してしまいました.才市さんの歌を見て,‘疑い心で覚えて聞く’とはこのような意味であったかと遅まきながら気づきました.そう思って読み返すと,「そのまま聞いて味わえば」も才市さんの「味に取られて味を聞く」と照応し,この才市さんの歌の味わいのようなコメントを頂いていたわけです.ありがとうございました.
【補足】 楠2-4 p.116:楠 恭 編『定本 妙好人才市の歌 全』 二の第四ノート(二のp.116)
YGM様,こんばんは.
「みやげ持たずに 帰る親里」
いい歌ですね.
実は,上の子がこの春から家を離れて他所へ出たのですが,たとえばその子が,夏休みに,土産を何にしようかなどと迷って帰省が遅れたりしたら,‘そんなことに迷っているヒマがあったらとっとと帰って来い’って言いたくなるでしょう.そういう風に私も待たれていたのかと,親になって分かりました.そして,今も待たれているのですね.
こんにちは 才市さんの法要真近となりましたね。たくさんお参りして
いただけるといいですね。onsaiさんからこの法要は才市さんの命日とは違うとききましたが、天候のよい時期に厳修されるのは有り難いことです。蓮如さんが命日を明日とご文章に書かれたことを考えるとeveryday
明日と日暮らししたいものですね。
疑いの心や道理・理屈で聞こうとしていた経験もそれが破られたときには深く受け取ることの出来る種となるような気がしますので、あながち
無駄ではないかも? そこに定住中ではありますが・・・
還暦を目前にして、60歳の誕生日からリセットして赤ちゃんの不疑の
心や吸収力がいただけないものかと思います。
釈破旬さま,こんばんは.
才市法要の日は毎年気持ちよく晴れて,内輪では‘才市日和’などと言っています.今年も晴れてくれそうです.一人でご法話を読んだりするには,雨もまたいいものですが,たくさんの人が集まる法要となると,やっぱり晴れてもらった方がいいですね.
「疑いの心や道理・理屈で聞こうとしていた経験も・・・あながち無駄ではないかも」
私も,無駄な遠回りをしたように思うことがありますが,そんな時,「たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ」という親鸞聖人のお言葉を思い出します.遠回りではあったけど,それもまた,結局はお念仏に出遭わせていただくご縁であった・・・.聖人のお言葉を,そう聞かせていただいています.
読み返していて急に坊主根性(?)が頭をもたげてきたので一言追加.上の「遠く宿縁を慶べ」の聞き方は,普通の味わい方とはちょっとずれていると思います.まともな聞き方は,たとえば,こちら http://crs.hongwanji.or.jp/kyogaku/mission/howa/sandai/gosandai_4.htm をどうぞ.
お小遣いくれるって言うから、[以下,削除]
仰るとおりであります。
道理・理屈を理解し覚えようと聞いていたのです。
道理・理屈を理解できるとウヌボレておりました。
ところが
『聴聞で かためた領解 もぎとられ みやげ持たずに 帰る親里』
と詠われたとおり、道理・理屈を会得したのでなく、もぎとられて、
ハダカにされて抱き摂られたわけです。
あじにとられて あじをきくこと
いいお歌を有難うございます。