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『アルト・ハイデルベルク』
旧ブログ 2018年11月18日 (日)

 『アルト・ハイデルベルク』は,ドイツの小説・戯曲です.

ある小領邦の王子が古都ハイデルベルクの大学に留学する.そこで,王子という立場を離れて一人の学生として青春を謳歌し,ビアホールのウェイトレス(と呼ぶのでしょうか?),ケティーと恋をする.身分違いの,稔らぬ恋だということは分かっていた.だけど,未来は見ないようにして,今,この恋だけを生きた.そして,二人でパリへと旅行に立とうとしたとき,父王崩御の知らせが届く.王子は,葬儀と即位のために慌ただしく古都を去って行った・・・.

 これを読んだころ,国語の授業で「舞姫」(鴎外)を読みました.

エリート官僚としての期待 --- 国家の期待と家族の期待 --- を背負って,「ウンテル・デン・リンデン」の通るベルリンに留学した青年が,踊子,エリスと身分違いの恋に落ちる.一度は,官僚としての道を捨てて,ベルリンでエリスとの生活を始めるが,しかし,親友のとりなしと説得に応じてエリスと別れ帰国する・・・.

 よく似た話です.男女二人の状況が同じ.そして,恋を捨てた理由もおそらく同じ.社会的体面を守り,高い地位を優先したという面もあったでしょうし,経済的問題もあったでしょう.しかし,一番大きな理由は,社会から期待されている自分の役割,自分が果たすべき社会的役割を放棄できなかったことだろうと思います.

 しかし,読後感はまったく違います.早朝,慌ただしく去って行く王子の馬車を見送った後,一人激しく泣くケティー.彼女と共に涙しながらも,その涙にはなにか甘美なものがある.『アルト・ハイデルベルク』は,美しく懐かしい思い出に似た読後感を残します.一方,「舞姫」の方は苦い.「一点の憎む心」を無理やりに押し殺しているような苦しさが残ります.この違いはどこから生じるのでしょうか.舞台になる都市も対照的に感じられます.南ドイツの明るく暖かい古都と,北に位置するプロイセンの重厚で寒い振興都市・・・.

 先日,私の青春の地,名古屋を約30年ぶりに訪れる機会がありました.大学構内や,かっての下宿の近くを歩いているうちに,当時のこと,当時の心の状態をありありと思い出しました.そして,当時抱いていたたくさんの夢を.実現しなかった夢,最初から実現できないことは分かっていて,無理やり心の底に封じ込め,そのことさえ忘れていた(つもりになっていた)夢・・・.定められた通りの人生だったことを今更後悔はしません.ましてや,還暦を過ぎた今,すべてを投げ捨ててやり直す時間も体力もない.名古屋で過ごした時間は,楽しくて,思い出すと少し悲しくて,でも,甘美な思い出.だけど,自分の人生を決める自由を持つ人をうらやむ気持ちも誘いだされて苦さも混じる.私にとっての名古屋は,ハイデルベルクとベルリンとの間を揺れています.

【補足】
 ひょっとして,今の私の生活を支えてくださっている方々に対して忘恩の言を弄するような文になったかもしれません.妄言多謝.名古屋に行って,何だか感傷的になってしまったようです.年齢的なものもあるのでしょう.「あの[学生の]頃、お刺身を食べながらどんな未来を予想していたんでしょうね。/こんなはずじゃなかった、ような気もするが、そう思うことも含めて、こんなのがわたしの人生なんだなぁ、としみじみ思ってしまいました」( http://tetsugakuka.seesaa.net/article/436030989.html )を読んで,なんだか頷いてしまいました.

 『アルト・ハイデルベルク』: マイアー-フェルスター作.高校の頃,まず,旺文社文庫に収めれれている戯曲を図書館で読み,次いで,角川文庫の小説版を読んだような気がしますが,記憶曖昧.手元にあるのは次の2冊です.

 植田 敏郎 訳『アルト・ハイデルベルク』(旺文社文庫, 1966).
 番匠谷 英一 訳『小説 アルト・ハイデルベルク』(角川文庫, (1971).

 今回,戯曲の方をパラパラと読み返していくつか思い違いに気付きました
 主人公は王子じゃなくて,ザクゼン=カールスブルク大公の甥である公子.大公の死ではなく,重病に倒れた大公に代わって政務をとるため呼び戻される.その後,大公の位を継ぎ,結婚も決まった後に,ハイデルベルクを再訪しケティーと再会する.

 「あたしには,わかっていましたわ,カール・ハインツ,あなたが一生のうちまたきっときてくださるってことが」(旺文社文庫, p.162).
しかし,このとき,ケティーも結婚が決まっていた.
 「ねえ,わたしたちふたりとも,ほかにどうすることもできませんでしたもの,ね? そしてまた,そのことは,わたしたちだって,いつでも知っていたはずです.」(同, p.167)
 ト書き:ケティー,彼のほほをしきりになでる.彼を見上げながら,永久になくしてしまう何かに,もう一度さわろうとする人のように
 「ぼくは,きみだけを好きだった,ケティー,すべての人たちのうちで,きみだけを」(同, p.169).

私の記憶にあった早朝の別れは,この再会の後でした.ただし,戯曲の方は深夜か早朝か不明.また,従者と歩いて去ってい行く.小説の方は「日曜の朝」.でも,こちらも馬車には乗っていません.どこで馬車がでてきたのだろう・・・と思っているうちに,映画を見たような気がしてきました.ついでにもう一つ.今回戯曲をざっと読み直して印象的(?)だったのは,二人が,それはそれは頻繁に,抱き合ってキスしていること.また,ケティーの言葉が限りなく甘く切ない.高校のころ読んだのですが,そんな記憶はがありませんでした.昔はそう感じなかったのか,感じたけど忘れたのか,あるいは・・・.『風立ちぬ』の文章も三,四十年ぶりに読み返して感じ方が随分違っていると思ったのですが.

 「舞姫」: 高校現代国語の教科書(筑摩書房)で読みましたが,今回は「青空文庫」電子テキストを参照しました.

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