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[才市] 法を聞くにも よい身を貰うて
旧ブログ 2016年3月22日 (火)

・・・
法を聞くにも よい身を貰うて
わたしゃ仕合せ
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
(才市さん,sd-03:084)

 前回ご紹介した口あいの後半です.
 「法を聞くにも よい身を貰うて」というのを見て,これはむしろ,ひっくり返して味わうべきかなぁと思いました.「私が聞きやすい方法,つまり人間の言葉で法を説いてくださった」と.フリーメーソンの暗号身振り(?)なんかで法を説かれても,ほとんどの人には理解不能でしょう.あるいは,イルカなどは仲間同士でかなり高度な意思疎通をしていると言われますが,イルカの方法で法を説かれても,私たちにはわかりません・・・などと変な例が頭に浮かぶのは,ある小説の挿話のためかもしれません.

 焚火にわが身を投げて,その身を旅人に食物としてささげようとしたウサギの話はよくご存知だと思います.お月さんにウサギがいるのはなぁぜ,というあの話です.
 自力で覚りを得るのは大変なことです.お釈迦様は出家後,厳し修行を積まれますが,それでも足りないのではないか.お釈迦様にはたくさんの前世があって、そのたくさんの前世でたくさんの修業をし、たくさんの徳をお積みになった結果,人間と生まれてきたときに覚りを得ることができたに違いない.そんな考えから,お釈迦様の前世に関する物語が多数つくられました.いわゆる「ジャータカ」です.逆に,昔ばなしがジャータカという枠に取り込まれたということもあるかもしれません.「ジャータカ」は,昔話・伝説などを集積する役割も果たしたのでは・・・そんな思いに誘われるくらい,多彩で,おとぎ話のような話がジャータカにはたくさんあります.月のウサギの話もジャータカの一つで,ジャータカの中では一番よく知られたものかもしれません.この話では,自らの命を差し出したウサギがお釈迦様の前世とされます.覚りへの善根を一つ積まれたわけですね.
 さて,小説の『月をさすゆび』には,この物語を巡って登場人物たちが議論を交わす場面があります.釈尊は輪廻の物語から抜け出たはずなのに,ジャータカによって再び輪廻の物語に引き戻されてしまったのは残念だなどという議論の後,感想を求められたある登場人物が答えて言うに:

「ブッダが人間の時に悟ってもらって良かったな・・・って.だって,ウサギの時に悟っていたら,人間に伝わっていないよね.仏教」
(永福, 『月をさすゆび』, p.41)

 意表を突かれ、思わず笑ってしまいました.小説中でも他の人々が吹き出して,加熱気味だった雰囲気が一気に和らくという展開でした.
 まぁ,確かに,そう言われればそうですね.そこで,さらに一歩進め,ウサギの時に覚ってしまってもよかったのだけど,それじゃ人間に伝わらないから,人間に生まれるまで保留していた,ちょうど大乗の菩薩方が,衆生を救うために成仏を保留しているように・・・という解釈はいかがですか?

 以上は,まぁ,半分冗談ですが,ただ,仏教は,いろいろな意味で言葉を大切にする一面があることは留意しておきたいと思います.

【補足】
 才市さんの口あい(sd-03:084):鈴木大拙編著『妙好人浅原才市集』, ノート3の84番(pp.39)の後半です.前半は前回ご紹介しましたが,改めて全体を下に掲げておきます.なお,用字,改行などを読みやすく改ました.

私ゃ仕合せ 私ゃ仕合せ
手もとう《届く》し
かごみもせずに 花のこずゑを
ご恩うれしや なむあみだぶつ
法を聞くにも よい身を貰うて
わたしゃ仕合せ
なむあみだぶつ なむあみだぶつ

 『月をさすゆび』:永福 一成 作, 小学館(文庫本), 2015. 漫画もあるようですが,そちらは見ていません.
 「月をさすゆび」の比喩と「ひとり犀の角のごとく歩め」という仏典の語句が,それぞれ二度,筋の展開に絡めて引用されているのが印象に残りました(三度以上あったかもしれませんが,それは覚えていない).
 この小説の中で,差別を巡る議論から生じたイザコザが描かれていました.私自身,得度修礼か教師修礼の時にこれと似た議論を見聞きしたので,それを思い出して苦笑してしまいました.また,あんなことやってる・・・と.ここに描かれているようなことが実際にあったのだろうと想像しています.まぁ,大きな組織を維持・運営しているとああなってしまう,というのは分からなくもないのですが(と,ぼかしておきます).

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