目がさめてみたら
生きていた
死なずに生きていた
生きるための
一切の努力をなげすてて眠りこけていた
わたしであったのに
目がさめてみたら
生きていた
劫初以来一度もなかった
まっさらな朝のどまんなかに
生きていた
いや 生かされていた (東井義雄)
昨年の秋ころ,血液検査で,肝臓が変かもしれないと,エコーを撮ったりしたことがあります.結局,一過性のもので心配ないということで収まったのですが,そのとき,エコーを撮ってくださった先生が,“あんな薬をあれだけ飲んでいれば,こんなこともある”とおっしゃったのが印象に残りました.そうか,肝臓も頑張ってるんだ,と.
私の場合,“闘病”と言っても,本人はされるがままで,あまり“闘っている”という感じはないのですが(むしろ,周りの人が頑張って闘ってくれている感じ),それでも,苦しいときなどは“頑張らなくっちゃ”って思うことがないわけでもありません.でも,“薬の後始末があるから肝臓もしっかり頑張ろう”などと思ったことは一度もありませんでした.そんな私の思い(のなさ)にもかかわらず,肝臓はきちんと働いていたのでした.
考えてみれば,肝臓だけではありませんね.心臓だって止まれば即死ですが,止まらないようにと絶えず努力したりはしていません.勝手に動いていわけです.
私の身体は「私」のもので,この「私」が支配し,「私」の存続に使っている・・・なんとなくそんなふうに思っていますが,でも,本当は逆なのかもしれません.まず,この身体,というか身体の働き,いのちの働きがあり,「私」はその上に乗っかっているだけ.
東本願寺の標語
今、いのちがあなたを生きている
は,このあたりのことを言っているような気がします.
【補足】
東井義雄氏の詩は,『季刊 せいてん』で見ました.2013年秋号くらいだと思いますが,いま,手元になくて確認できません.『季刊 せいてん』では,最近ずっと,巻末に東井氏の詩を掲載しています.