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[才市] わしの心は久遠のひでり
旧ブログ 2012年1月14日 (土)

わしのこころは くをんのひでり
いまは六字のみずをもろうて
(『ご恩うれしや』, p.108)

 前回の詩に「久遠」という言葉がありましたが,この口あいはその「久遠」からの連想です.連想ゲームを続けると,次は,チエホフの「大学生」という短編.こんな物語です.

 ある夜,焚き火のまわりで,帰省中の神学生が聖書から「ペテロの否認」の話をして聞かせます.
 最後の晩餐のとき,キリストは弟子たちに,自分が捕まったとき,弟子たちは自分を見捨てて逃げるだろうと言いました.それに対し,ペテロは,“牢獄でも死でも私は主に従う”と答えます.しかしキリストは,“私が捕まった日の夜,夜明けの鶏の声がするまでに,あなたは,キリストの弟子であることを三度否定するだろう”と言葉を重ねるだけでした.
 さて,キリストが捕まった後,キリストの言葉通り,弟子たちは散り散になって逃げ出します.焚き火にあたっている人々に紛れていたペテロも,キリストの弟子ではないかと三度尋ねられ,三度否定します.そのとき鶏の声がして,ペテロは:

晩餐の席で彼《キリスト》の言った言葉を思い出した.……思い出すと、はっと我に返って、彼は中庭から出て、身も世もあらず泣き出した。福音書にはこう書いてある。―『そこで外に出て、激しく泣けり』と。僕は今こう想像するのさ。―静かな静かな、暗い暗い庭があって、その静けさのなかで低いすすり泣きの声がやっと聞える様子を……」
 学生はほっと溜息をついて、考え込んだ。ワシリーサはあい変らず微笑を浮かべていたが、急にしゃくりあげたと思うと、大粒の涙がはらはらとその両頬を伝って流れ落ちた、彼女はその涙を恥かしがるように、焚火から袖で顔を隠した。一方、ルケーリヤは、じっと学生の顔を見つめながら、顔を赤らめた。その表情は、激しい痛みをこらえている人のように、重苦しく引きつっていた。

 この様子を見て,「ふいに喜びが学生の心に波うってきた」.「むかしあの庭や祭司長の中庭で人間の生活をみちびいた真実と美が、そのまま途切れずに今日までつづき、いつの世にも、人間の生活の、いや、この地上すべての最も重要なものを構成しているに違いないと考え」て・・・.

 チエホフは一筋縄ではいかないところがあって,“いや~,感動的ですね~”なんていっている裏で皮肉な笑いを浮かべているということがよくあります.「可愛い女」なんて題名から強烈な皮肉ですね.でも,この小説はそのまま受けとってもいいような気がします.神学生でありながら久遠の旱に苦しめれれていた大学生が,老婆の涙という水をもらった・・・(とは言うものの,上に部分的に引用した最後の段落全体を読むと,ちょっと不安になりますけど.せっかく真実の水をもらった学生が,その感動を感傷のなかに解消してしまったような・・・).

【補足】
 チエホフからの引用は,こちらこちらからお借りしました(池田健太郎訳).
 私は高校生のとき,国語の教科書で読みました.ただし,授業では飛ばしたところです.つまり,授業中に“内職”して読んだわけです(^^;).

 「ペテロの否認」は,十字架上のキリストの言葉,「われを見捨てたもうや」とともに新約聖書中でもっとも劇的でもっとも印象的な場面だろうと思います.これについて,あるキリスト教系サイトから,少し長くなりますが引用しておきます(なお,たまたま目にしたサイトであり,これがキリスト教諸派を代表する見解かどうかなどは一切関知しません).

初代の教団を代表する大使徒ペテロが三度までイエスを否認したことが、受難物語の一部分として語り伝えられ、福音書に記録されるようになった事実は意味深い。普通、どのような集団も指導的人物の弱さや失敗は隠そうとするものである。ところが、教団は、師に対する裏切りといってよいほど深刻なペテロの否認の行為を、語り伝え、書きとどめている。おそらく、この出来事はペテロ自身が繰り返し語ったのであろう。それは、この時のペテロの姿によって、信仰とは何かについてきわめて大切なことを語りたいからである。 イエスは最後の晩餐の後、ゲッセマネへ向かう途中で、弟子たちのつまずきを予告された。その時ペテロは、「たとえあなたと一緒に死なねばならないとしても、決してあなたを否認しません」と言っている(マルコ一四・三一)。そのペテロが、舌の根も乾かぬうちに、「そんな男は知らない」と言って、三度までイエスを否認するのである。この事実は、いかに堅い決意をもってしても、人間の決意や意志の力でイエスに従うことはできない、ということを示している。
[中略]
人が神との関わりにおいて少しでも自分の能力とか、道徳的価値とか、内面的な誠意とかを拠り所としているかぎり、そのような信仰は必ず挫折する。その挫折の場で、われわれは自分の道徳的価値はもちろん、キリストへの忠誠というような自分が信仰だと思っていたものまでも否定されて、完全に自分が打ち砕かれ、神の無条件の恩恵と、自分が不信実であっても信実でありたもう神の絶対の信実に自己の存在を委ねるときに初めて、われわれは神との本来の関わりの場に入ることができるのである。このように、自分の信仰にさえ絶して、神の信実だけを拠り所とする質の信仰を「絶信の信」と呼んでいるが、ここのペテロの姿はこの「絶信の信」の消息を物語るものである。

【追記: 2016.07.19】
キリスト教系サイトへのリンクが切れていました(引っ越したようです)ので,修正しました.
「天旅 市川喜一の新約聖書購解と福音書講和」というサイトの一部です.

チエホフ「大学生」へのリンクも切れているようです.

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