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[才市] わしの疑い 海より深い
旧ブログ 2011年10月19日 (水)

わしのうたがい うみよりふかい
わしのうたがい やまよりたかい
わしのうたがい せかいのごとく
それにおじひが くっついて
くださるおじひが なむあみだぶつ
ごおんうれしや なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 p.25)

 遠藤周作氏がこんなことを言っていました.

キリスト教の信者になったものは,信仰の確信を持っているという誤解があります.「信仰というものは,99パーセントの疑いと,1パーセントの希望だ」と言ったのはフランスの有名なキリスト教作家ベルナノスですが,私は本当にそうだと思うんです.
(遠藤, p.160)

 以前,「信はこれ 底抜けて澄む 水の如《ごと》」(菖堂)という句をご紹介しました(2010.10.31付け).これを「我が心 底抜けて澄む 水の如」と読み間違って,それが信心だと誤解してしまうことがよくあります.遠藤氏の言う,「キリスト教の信者になったものは,信仰の確信を持っているという誤解」と似た誤解ですね.

【補足】
 遠藤:『狐狸庵読書術』河出文庫, p.160.

 以前,あるコメントを頂いて以来なんとなく気になっているのですが,「希望」ってキリスト教的表現と言っていいのでしょうか.「信仰と希望と愛」というのは,確かキリスト教で大切にされる三つの言葉だったような・・・.私の好きなバッハには,「主よ、人の望みの喜びよ」という題名の曲がありますが,この「望み」は「希望」のこと? それはさておき,この曲,聞いているだけで,静かな喜びが穏やかに湧き上がってくるような曲ですね.バッハは偉大なり!

 学生の頃,『少女ムシェット』という映画を見たことがあります.なんというか,まったく救いのない映画で,最後の事故死のような自殺が心に残りました.「優しき闇」のなかに,ふと歩み入るような自殺・・・.この映画の原作がベルナノスの『悪魔の陽の下に』であることはずっと後になって知りました.

コメント

あたらめて自分のコメントをじっくり読ませていただきました。よくもまあこんなまもともな(自賛ですが)コメントをしたものだと思います、いつも思いつきでコメントをしているのを自覚いたしました。その記事を読んで感じたことを遠慮なく書かせていただいていることに感謝します。
キリスト教での希望は仏教ではなんと言い当てているのでしょう?思いつくのは ひかり 光明 でしょうか????(ちょっと無理かな?)

 こちらこそ,「感じたことを遠慮なく書」いていただいて感謝しています.私もけっこう好き勝手なことを書いていますが,その足りないところをコメントで補ってもらったり,別の視点に気づかされたり,次のお題を頂いたり・・・.
 破旬さんがコメントをくださるようになった最初の頃(つまり,このblogを始めた頃)だったと思いますが,お知り合いの方と,
  「私は死んだら、船に乗ってお浄土へ行くも~ん」
  「ホントか~?、疑いなく信じられるのか?、難中の難 とか 極難信 とか親鸞さんは言ってるゾ~!!、ば~か」
という会話をされているというコメントを頂いたのが今でも印象に残っています.会話の感じがまさに「仏法談合のとき寒なれば寒、熱なれば熱と、そのまま心のとほりをいふなり」(蓮如上人聞書)ですね.
 これからも,お互い「寒なれば寒、熱なれば熱」でお願いします.

 「希望」については,ときどき思い出しては考えているのですが,よくわかりません.「光」かもしれません・・・.例の如く,自ずと孵るまで温めておきます.

くだんの馬鹿と断定されたオバサンは相変わらずでして、いつも熱状態なので、さすがの私も疲れる時があります。寒を知ってこそ熱のありがたさがわかるような気がするのですが、彼女の感性は寒をしらないようです。
もっとも、心の奥は他人にはわかりませんので寒ゆえの熱かもしれませんね。かねてしろしめしているのは仏のみでしょう・・・

 あはは.笑ってしまいました.分かるような気がします.お疲れ様です.でもおっしゃる通り,「心の奥は他人にはわかりません・・・かねてしろしめしているのは仏のみでしょう」.

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