わたしゃ しあわせ 卵で生まれ
ピヨピヨと
鳴く声きけば なむあみだぶつ
(楠,三,p.73)
あるブログで,「ひよこの歌」というのを教えていただきました.
小さな男の子が,ぼく,ひよこの歌知ってるよ,「如来大悲の恩徳は ヒヨコにしても報ずべし・・・」
元のお話は,すこし状況が違うそうですが・・・
さて,才市さんにもヒヨコの口あいがありました.
ただ,この口あいはどういう意味でしょうか.どういう状況をいっているのでしょうか.一応の解釈としては:
「私は,疑いの殻に覆われて生まれたが,阿弥陀様を讃嘆する声を聞いて,私もまた,南無阿弥陀仏を称えさせていただくようになった」
「ぴよぴよ」は阿弥陀様を讃嘆する声としましたが,これはヒヨコの歌に引っ張られすぎた理解かもしれません.才市さんがヒヨコの歌を知っていたとも思えませんし・・・.
ずっと以前,ご法話で「啐啄同時」という喩えを聞いたことがあります.あるいは,才市さんもこの喩えを聞いて,そこからこんな歌が出てきたのかも・・・?.
【補足】
楠,三,p.73:楠恭編『定本 妙好人才市の歌 全』, 三, p.73(三のノート3, 39番)
先のコメントは小生でした
こんばんは.
>爬虫類の場合は卵は生みっぱなしでも常温で孵化できましょうが、鳥の場合は親鳥が常に抱いて温めないと殻の中の命は生きていられませんね。
「啐啄同時」の味わいとして聞かせていただきました.この比喩,うっかりすると,自力的な聞き方になってしまいますね.しかし,「お待たせしました」がなんとなくいいですねぇ.
究極的には,諸仏と同じように十方に響く声・・・ま,これはお浄土に行ってからの楽しみですけど.
啐啄同時 いい言葉を教えていただきました。父親の私は陣痛とか出産の大変さをしりません。人間の場合もよく荒れた子供が「産んでくれって、頼んではいない!!」という言葉を発しますが、ある先生の法話のなかでで高校の授業で生命の不思議を題材にしたドキュメントを見たときに、陣痛は胎内の赤ちゃんがお母さんに向けて「さあ、私を産んで!!」という信号を発して初めて起きるという場面があったそうです。それを見ていたなんどもリストカットをくりかえしていた女生徒とが「おかあさん、ごめんなさいと」涙をながしたそうです。後日、その先生にその子は今?とお聞きしたところ赤ちゃんを産んでお母さんしています。と教えていただきました。
卵の中のヒナに思いを馳せることは人間にしかできないことですね。
赤ちゃんは,狭い産道を通り抜けるとき,身体をひねって回転しながら生まれてくるというアニメーションヴィデオ(?)を見たことがあります.外から講師をお招きして行った高校の授業で,生徒と一緒に見たような気がします.
“準備ok”と母親に合図したり,身体をひねったり・・・.でも,そんなことは誰も覚えていない.合図したり身体をひねったりしたのは確かに“私”だけど,でも,その“私”に思いを馳せることは,卵の中のヒヨコに思いを馳せるのと似ている感じです.心臓の働きと同じで,私の知らないところで働いている“私”.これを“私”と呼ぶことが適当かどうか・・・.このあたりから,「いま,いのちがあなたを生きている」という標語が出てきたのだろうと思います(この標語,ネット上では不評のようですので,ちょっと援護しておきます^^;)
爬虫類の場合は卵は生みっぱなしでも常温で孵化できましょうが、鳥の場合は親鳥が常に抱いて温めないと殻の中の命は生きていられませんね。
私たちも卵として産み落とされて、10こう(漢字が出ない)の間、阿弥陀さまに孵卵をしてもらい、やっとお念仏を言わせていただく身となりました。
お待たせしました、はじめまして、ありがとうといった感じで ピヨピヨと
お念仏の真似事をさせていただきましょう。でもひよこもいつまでもピヨピヨという鳴き声ではありません、大人の声に早くなりたいですね。