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聖書はええなぁ~~?
旧ブログ 2011年7月30日 (土)

 もちろん,み教えについて“聖書はいいなぁ”と言っているわけではありません.ただ,一点だけ,私たちのお聖教は,聖書に負けているなぁと思うところがあります.それは,引用・参照の便です.
 たとえば,前回,聖書の一句を引用し,“マタイ 27:45”と書きました.“マタイ伝の第27章45節”ということですね.これで,たいていの聖書では,引用箇所を即座に探し出すことができます.
 聖書っていろいろありますね.ホテルにおいてある新約聖書,日本聖書協会が出しているいくつかの版,岩波文庫版,あるいは,何世紀も前にイギリスで出版された英語の欽定訳・・・.キリストのあの言葉が書いてある頁は,これらの本でそれぞれ違います.でも,共通の章・節番号が振ってあるので,どの本でも “27:45” で引用箇所を指定するができるわけです.そして,聖書を引用・参照する場合はこの章・節番号を使うという習慣が(おそらく世界中で)定着しているようです.
 残念ながらお聖教にはこれがありません.何頁といわれても,引用者と同じ本を持っていないと探せない.本願寺が出している『真宗聖典』には節番号が振ってありますが,節が長くて,時には数頁に及び,参照には不便です(聖書の1節は,ほんの数行です).加えて,真宗のお聖教から引用する場合はこの節番号を使うという習慣もありません.
 おそらく,専門家の間では,原則としてあの本から引用し頁もあの本で示す,という習慣があるのでしょう.でも,一般読者には通用しません.
 聖書に今のような細かな節番号が振られるようになったのは16世紀からだそうです.宗教改革で,それまでは聖職者が独占していた聖書を一般信者にも開放しようと各国語訳の聖書が出版されたということは世界史で習いましたが,もう一つ,共通の節番号を振るという習慣もそのときから定着したようです.宗教改革っていうのは,本当に大きな運動だったのですね.

コメント

開法蔵 ができていませんね、特に我が派は顕著だと思います。
もっとも法蔵は漢文で書かれたものがほとんどですが、開くのは
手次寺の住職のしごとでしょう、親鸞聖人が漢文と現代語の中間の
資料としてたくさんの聖教を残してくれていますので、使わない手は無いでしょうが、活用し尽くされているとはいえません。それにしても聖人の文章は丁寧に用語を教えてくれていますね。

 こんばんは.

 聖書風の引用・参照システムが完備していれば,開法蔵の大きな助け・呼び水になるのになぁ・・・

仮に,聖書と同じシステムが完備していれば,たとえば,『真宗聖典 注釈版』を編集するときに,親鸞聖人が維摩経から引用されているところに「維摩 4:56」と書き加えておく.お経を諳んじている人は,それを無視して直接該当場所を開けばよい.諳んじていはいないけど漢文経典が読める人は,手元の漢文経典の 4:56を見ればよい.漢文はきついという人は『国訳大蔵経』の 4:56を見ればよい.あるいは,現代語訳を探して来て・・・.ともかく,自分が参照できるもので,自分のレベルにあった本で引用箇所を確認できます.そこから,さらにその前後を読んでみるという形でおのずと法蔵が開けていけますね.親鸞聖人が残してくださったたくさんのお聖教がもっと活用しやすくなると思います.
 本願寺からでている『真宗聖典 注釈版』と『同 七祖篇』は,引用箇所の頁が書いてあることもあって非常に助かりますが,残念ながら,聖書ほど詳しくありませんし,この2冊の内側だけに留まっています(それと,改訂版が出て,旧版と頁が少しずれることがあります).

 さらに,漢文を開くのが素人にも容易になりますね.
 英米人の書いた論文などでは,よく聖書が引用されますが,たまに,ラテン語版から引用されていて,しかも訳がついていないということがあります.当方,ラテン語はさっぱりですが,でも,大丈夫.章・節番号を頼りに日本語訳聖書を見ると,ちゃんと日本語訳が書いてある.英語で読みたければ,英語の聖書を見ればよい.研究者が参照する専門家向け聖書を持っていなくても大丈夫ですし,節が非常に短く切ってありますので,この節のどの部分だろうと迷うことはほとんどありません.これと同じことがお経でもできたら,漢文のお聖教を読むのがずっと楽になりますね.

 まぁ,聖書に比べ,仏典はこういうシステムを作るには不利な条件がたくさんあるので仕方ないといえば仕方ないのですが.でも,文化の違いも大きいように思います.

 長文になりました.日頃,切実に感じていることです.

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