入口小目次> この頁
     口あい一覧  事項索引 
[才市] There is no self-power, no Other Power
旧ブログ 2011年2月 9日 (水)

In Other Power
There is no self-power, no Other Power.
All around is Other Power.
Namu-Amida-butsu, Namu-Amida-butsu.

 去年の末,『 Great Living: In the Pure Encounter between Master and Disciple 』という,歎異抄についての本を頂きました.その中に,才市さんの口あいが上記のように英訳して引用されていたのですが,これを見たとき,一瞬,ギョっとしました.“他力の中に他力はない”って矛盾じゃないかって.
 「無用の用」とか「義なきを義とする」などという言い方をよく耳にするので,なんとなく分かったような気になって,日本語で読んでいるときはあまり気にも留めなくなっていたのですね.まさに,“耳慣れ雀”でした.
 今回は,この本から,この口あいについて述べられている箇所をご紹介します.

たりきには
じりきもなし たりきもなし
ただ いちめんの たりきなり
なむあみだぶつ なむあみだぶつ

 1行目の「他力」とは,才市が身をもって体験した絶対的な他力のことである.それに対し,2行目の「他力」は,自力と対置される二元論的,相対的な「他力」である.「他力」の真の体験は,絶対的な他力の体験である.絶対的な他力は,我々の概念的思考を超越し,そこに自他の区別という概念は存在しない.「他力に己が身を委ねた者」は,他力の只中に真の自己を発見する.それが,3行目の「ただ いちめんの たりきなり」である.
 この詩が最初の3行だけなら,他の宗教家でも容易に書くことができただろう.自分の他力体験をただ内省した結果だからである.しかし,鈴木大拙が深い洞察によって指摘している通り,「この詩の真髄は最後の行,『なむあみだぶつ なむあみだぶつ』にある.自分の個人的な体験に表現を与えられたことを喜びながら,才市はただ,阿弥陀仏に帰っていく.「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」とお念仏を称えながら.これこそ,この詩人を貫いて働いている他力の,生きた表現である」.

 なお,私の英語読解力はあまり当てになりませんので,その辺,よろしく.また,かなりの意訳になっています.文法的に正確なところはわからないので,まぁ,こんな意味であろうかと(^^;).

【補足】
 _Great Living: In the Pure Encounter between Master and Disciple_ by Kemmyo Taira Sato, New York, 2010. 引用はpp.73--74. 『歎異抄』第8条(念仏は非行・非善なり)に付された解説の一部です.
 引用中の口あいは,本書の注33(p.176)にローマ字で記されているものをそのまま平仮名になおしました.これとほとんど同じ口あいが鈴木『妙好人 浅原才市集』p.174にあることが注記されています.少し前の記事に掲げた口あいは,その『才市集』にある方です(ただし,表記に手を加えてある『ご恩うれしや』に依りました).
 また,「他力に己が身を委ねた者」とは,すぐ前に引用されている『歎異抄』第3条の一節 'whose who are aware of thier bad karma and so entrust themselves to Other Power'(「他力をたのみたてまつる悪人」注釈版 p.834)を受けたものです(多分).

 著者の佐藤 平 釈顕明 師は,鈴木大拙編著『妙好人 浅原才市集』(春秋社,1967)の編集・注釈作業を実質的に行われた方です(同書「あとがき」参照).私が子供の頃,当山にも調査においでになりました.よく遊んでもらったことだけ覚えています.本当は,限られた時間の中,寸暇を惜しんで調査を進めたいという状況だったはずなのに・・・とは,ずっと後になって気づいたことです.

 なお,『Great Living』は日本の amazon 書店ではうまく見つけることができませんでしたが,amazon の各ページ下部の「アメリカ」をクリックしてアメリカのamazonで検索すると出てきます.

 続けて読んでくださっている方はお気づきでしょうが,ここ数回の記事は,今回の記事への長い長い前置きでした.私が何回かの記事を費やしてモタモタ述べたことが,この本ではほんの10行ばかりで簡潔に述べられています.マイッタ,マイッタという感じですが,さらに,口あい3行の内容を,“こんなこたぁ,だれでも言えるわい,単に自分の他力体験を内省した結果だろ(The whole of the first three lines of the peom could easily have been written by any religous philosopher, for it is simply the result of Saichi's reflection on his own experience of Other Power.)”と言われるに至っては・・・禅師から一喝された気分.

コメント

久しぶりにブログ読ませて頂きました。
鈴木大拙師の”深い洞察”に圧倒されました。
確かに最初の3行は、自分の考えたことや味わいといったもので、
他の宗教家や哲学者も書けるところかもしれません。
しかし最後の称名は、ただ阿弥陀様から呼びかけられているだけ
なのですから、自分が考えたり味わったりする以前の信心ですね。
だから私はからっぽ、あるのは弥陀のお呼び声。
ありがたいです。

YGMさん,お久しぶりです.
私も圧倒されました.このあと,一念/多念の話,そして,念仏ひとつ/信心ひとつの話に続ける予定なのですが,今回の引用のあとでは,腑抜けた話にしかならない感じで,苦慮(?)しています(^^;).

入口小目次> この頁
     口あい一覧  事項索引