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[才市] わしがいくところ 付いて来なさる
旧ブログ 2010年12月15日 (水)

ありがたいな
こんな《この》 如来さんは
どこいでも《どこへでも》
わしがいくところ
ついてきなさるな
ありがたいな
それが機法一体の なむあみだぶつ
これにたすけられるのが なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 pp.73--74)

先に,「留守ですかな」という才市さんの呟きをご紹介しましたが,今回はいつでも一緒という味わいです.矛盾していますか?

 以前,報恩講でつぎのようなお話を聞かせていただきました.

 おまつ同行という方が,2,3日家を空けることになりまして,朝,お仏壇にお参りして,如来さんにお願いしたんです.「2,3日ちょっと出かけますから,すいませんが,ちょっとお留守番,よろしゅうお願いします」.そう言って,戸締りをして出かけたのですが,ものの2,3町も行ったとき,歩きながら,「なんまんだぶつ,なんまんだぶつ」とお念仏が出て,ありゃ,と気づいたんです.「留守番頼んどいたのに,はぁ,ここに来とってじゃ」.
 それでね,「こりゃ困ったことじゃ,留守番しとってじゃないわ」・・・と言わんでいいんですよ.
 月の夜道を歩くとき,お月様は私の行くほうについてきてくださるでしょう.私が西に行けば西についてきなさる.たとえば,あなたと夜道をあるいていて,分かれ道で,それじゃ,と言って左右に別れる.そして,私が右に行くとお月様も右について来とってじゃ.そのとき,あなたはお月様とお別れですか.そうではないですね.お月様は左に行くあなたにもついて行きなさる・・・.

 阿弥陀さまは,十方衆生を救うために,お念仏を称える人といつも一緒にいてくださる.でも,そんなことは人間には不可能です.どういうことになっているか理解さえできない.だから,十方衆生を救うという面を味わうと“留守ですか”ということになり,十方衆生の中にこの私も間違いなく入っているという面を味わうと“どこいでもついてきなさる”ということになる.人間の理解を超えた阿弥陀さまの広大無辺な働きは,分割して味わうしかないわけです.その全体を窺おうとすれば,もう,比喩によるしかない.
 以前,「ちゃんと うちねの《自分の家の》 如来さんでありました」という才市さんの歌をご紹介しましたが,これもそうですね.如来さんに,“うちの如来さん”もよ“その如来さん”もありません.でも,阿弥陀仏を人間の言葉で完全に捉えることはできませんので,こういう言い方になるわけです.まさか,この言葉を捉えて,“弥陀如来の救いを私物化している”と批判する人もいないでしょうけど・・・.

 電子は粒子であり波でもあるといわれます.変ですね.しかし,粒子とか波というのは,人間が直接経験できることから引き出された性質です.人間の理解力は自分が経験できる世界に合うようにできている.でも,世界は人間の理解力に合わせてできているわけではありません.だから,人間の経験に直接引っかからない電子が両方の性質を持っていてるということも起こる.そこで,電子の立ち振る舞いを理解しようと思ったら,場面に応じて,粒子と見たり波と見たりするしかないわけです.それと同じことではないでしょうか.

 “ホレイショよ.この天と地の間には,人の理性では想像もつかないことがあるのだ”

【補足】
 しかし,経験の範囲を超え理解できないはずのものを,間接的な経験で捕らえ,矛盾するかに見える諸局面に分割してでも理解しようとする人間の分別智もたいしたものです.だから,その素晴らしさに幻惑されてしまうのですが・・・.

 電子が粒子・波動,両方の性質を持つことについては,いろいろな議論があるようです.私は理系と言っても,このあたりは全く素人です.もし,間違いがあれば,この一節は丸ごと削除します(^-^;).

コメント

手次てらの報恩講が今日から始まり、事前準備などで忙殺されております。とりいそぎ チョットだけコメント
お松同行のお話、わたしも味わい深く聞いた事があります。
そのままでなく高楠順次郎さんがまだ東大の大学院教授をされているころ。毎年自宅でゼミの生徒さんや、同僚の教授を招いて報恩講を勤められていたとき、法話の講師にご出身の備後の普通の寺の住職さんをお招きして このお松同行の話をきかれたそうです。先生はそのお話を聞いて
涙を流して喜ばれたとか・・・ といった風に お松さんと高楠先生のコラボ
してのお取次でした。
わたしのように教学に暗い人間は、こんなお話がとても有り難く感じられます。
ではまた・・・

破旬さま,こんばんは.
報恩講,およろこび申し上げます,たいへんでしょうけど.お忙しい中,コメントをありがとうございました.

「お松さんと高楠先生のコラボしてのお取次でした」
そのお話を喜ばれた方からお聞きするというのはいいですね.話自体の味わい+それを喜ばれている人の姿がまさにコラボ.
 私もお取次ぎをさせていただくこともあるのですが,何かの話を聞いて,そうだったんだ!是非人にも伝えたい,と思っているときにお話しすると,うまく伝わるような気がします.ところが,何度かお話しているうちに,話はまとまってくるのですが,なんか,うまく伝わらなくなります.凡夫の悲しさ,感動が薄れてくるのでしょうね.
 ご法話をよく聞いたり読んだりしている時期にお話しすると,内容的にはぜんぜん別の話でも伝わりやすい感じがしますが,多分,似た事情だと思います.聴聞していないとすぐに心が離れてしまうのですね.私もまだまだです(言い換えれば前途洋洋 ^-^;).

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