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「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか,よく考えた上で返事をしろ」
旧ブログ 2010年8月 1日 (日)

 子供の頃,自分が兄だったら,あるいは妹に生まれていたら今頃どうしているだろう,などと考えたことはありませんか.あるいは,兄弟がいたら・・・と.
 私も,通学路を歩きながら,もし兄がいたら今の自分はずいぶん違っていただろうと考えたことがあります.そして,さらに空想が広がり,じゃ,その場合,いたかも知れないその兄はどうしているだろうか,などと考え始めました.
 遺伝的には私とほぼ同じ,兄として育てられれば環境も今の私と同じ.ならば,その兄は,今の私と同じように育ち,今の私と同じ性格で,同じようなことを考るようになるのではないか.今頃は,この同じ道を歩きながら,自分が弟だったら,と考えているかもしれない・・・.え,今と同じじゃない.とすると,その兄って,結局“私”じゃないの.“私”が,兄になったり弟になったりするのではなく,兄として生まれてきた者が“私”なのだ・・・? このあたりでワケが分からなくなって考えるのをやめました(^-^;).
 以前お話した,“私が平安時代に生まれていれば”という仮定も,こう考えると意味があるのかないのかよく分かりませんね.平安時代に生まれた時点で,それはもう“私”ではない,アカの他人のような気がします.もちろん,今の私がタイムスリップし,今の記憶を持ったままで胎児に戻って生まれ直すなら話は別です.“私は21世紀ではなく平安時代に生まれたぞ!”って.でも,そんな生まれ方をする人はいません.

 高校か大学の頃,芥川龍之介の「河童」を読みました.内容はすっかり忘れてしまいましたが,ただ一つ,河童の子供が生まれてくる(というか,生まれてこなかった)場面が印象に残りました.
 河童の国では,いよいよ出産というとき,おなかの中の子供に父親が意思確認をします.「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか,よく考えた上で返事をしろ」と.そして,子供が,いくつかの理由を挙げて「生まれたくありません」と答えると,母親のおなかは急にぺしゃんこになって,子供は生まれてこない.そんな場面でした.
 でも,河童ではない私は,これこれの子供として生まれるということを自覚して生まれてきたわけではありません.気がつけば,こういう“私”として今ここにいた・・・.言い換えれば,今ここにこうしているのが“私”であって,それ以外に“私”は存在し得ない.当たり前といえば当たり前ですが,なんだか不思議です.“この世界に投げ出された私”という言い方を聞いたことがありまが,このような“私”のあり方の不思議を言った言葉でしょう.

 前回引用した『無敵のソクラテス』(池田晶子)を読んで,一番強く感じたのは“私”が今こうして存在すること,“私”の存在の仕方の不思議さでした.この不思議を前にすると,一昔前に流行った「自分探し」なんて甘ったるい言葉は吹っ飛んでしまう・・・なんて憎まれ口をたたきたくなるのは池田=ソクラテスに感化されてますね(^-^;).

【補足】
 『無敵のソクラテス』:池田 晶子,NPO法人 わたくし,つまりNobody 編『無敵のソクラテス』(新潮社,2010).
 「河童」:芥川龍之介『河童・玄鶴山坊』(角川文庫, 1974)では,pp.180--243.お産の場面はpp.188--198にあります.今回ウン十年ぶりに読み返してみましたが,やっぱりお産の場面以外はほとんど覚えていませんでした(^-^;).それと,お産の場面も妙に生々しい.子供は勝手に消えるのではなく,返事を聞いた産婆さんが何かを注入して消すのでした.
 “この世界に投げ出された私”とは,フランスかドイツの哲学者か作家の言葉だったと思いますが,はっきりしません(ひょっとして『無敵のソクラテス』中に引用されていたのかもしれません^-^;).検索していみればいいのですが,今回はパス.

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