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[才市] 歓喜もあれば慚愧もある
旧ブログ 2010年3月28日 (日)

なむあみだぶは よいどうぐ
しん《真》もあればぞく《俗》もある
くわんぎ《歓喜》もあればざんぎ《慚愧》もある
さいちは よいものを
いただかせて もらいましたよな
ま ま なんでもええわ
さいちが しやわせ
なむあみたぶつ なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 p.180)

 知り合いとこんな会話を交わしているというコメントをいただきました.

 「私は死んだら、船に乗ってお浄土へ行くも~ん」 [信楽易行水道楽]
 「ホントか~?、疑いなく信じられるのか?、難中の難 とか 極難信 とか親鸞さんは言ってるゾ~!!、ばーか」 [難中之難無過斯]
2010年1月30日(土)付け記事へのコメント.[ ]内は引用者補足)

 実際の会話がどのようなものかはわかりませんが,読んだとき,いいなぁ,と思いました.信心について話すときにはつい身構えてしまいがちですが,「も~ん」だの「ばーか」だなど遠慮なしに話せるのは,「物を言え,言え」(蓮如上人)の実践ですね(^_^).

 真宗の信心は,才市さんの歌でいうと歓喜と慚愧とが表裏一体になったものですが,私たちは,えてしてどちらか一方に沈み込んでしまいます(あるいは,慚愧から歓喜へというステップを考えてしまう).上の会話は,歓喜と慚愧との対話,一方に偏りかけるのを互いに引き戻している会話と聞かせていただきました.

 ついでながら,才市さんの「ま ま なんでもええわ」(まぁ,どうでもいい)というのも,なんとなくおかしくて,肩の力が抜けますね.ぐちゃぐちゃいわずに,なんまんだぶ・・・.

【補足】
『蓮如上人御一代記聞書』より
 (86) 物をいへいへ・・・。物を申さぬものはおそろしき・・・。信・不信ともに、ただ物をいへ・・・。(『注釈版聖典』 p.1259)
 (203) 仏法談合のとき寒なれば寒、熱なれば熱と、そのまま心のとほりをいふなり。(『注釈版聖典』 pp.1296--1297)

コメント

ば~か なおばさんに、このブログを転送したら、喜んでいましたヨ。
以前石見の女性住職の父上さまと、才市さんの話をしたとき、「昔は才市さんのような人はたくさん居た、でも
今は居ない」と言われていました。本願寺新報で 土徳 の特集をしていますが、その土徳も急激に衰退しているのでしょうか? 寂しいことですが、とりあえず家庭で法義相続のまねごとをするしかないですね・・・

 喜んでいただければ何よりです.人様の会話を云々するなんて,ある意味,不遜な行いで,すこし躊躇したのですが,ちょっと安心しました.

 確かに,土徳は薄れてきているのかもしれません.私も昔のことは良く知りませんし,今でも篤信の方はいらっしゃいますが,話に聞くと,そんな感じです.み教えを伝えることが務めである者としては,なんとも申し訳ないことではありますが・・・.

 でも,家庭の役割は大きいですね.私自身,寺に育っていなければ,お念仏にであっていたかどうか.逆に言うと,真宗にまったく縁のなさそうな環境に育ちながらお念仏を喜んでいる方を見ると,すごいなと思います.

 なんだか,話が横ズレしそうですので,この辺で.

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