仏智不思議を疑うことのあさまし
三十四年 罪の詮索するからよ
罪の詮索無益なり
罪の詮索せぬ人は
暖簾すがりかホタすがり
閻魔の前で いんま後悔
罪の詮索する人は
ここで金剛心をいただく
(楠 2-9 p.239)ホタ:触ればすぐ倒れる木.
いんま:今
罪の詮索は無益だと散々言っておきながら,なんだこれは,って言われそうですが(あ~~,石を投げないで ^_^;).
この歌について,源了圓先生が丁寧に説明してくださってますので,それを聞きましょう.
罪の問題について,蓮如上人は自分の罪をどうだこうだと味わうよりも,こうした罪深い私を助けてくれる如来の教えの方に目を向けなさい,とおっしゃっている.・・・これに対して才市は自分の歌の中で
仏智不思議を疑うことのあさまし,三十四年,つみのせんさくするからよ.
つみのせんさく無益なりと歌の前半では蓮如の考えを受け入れつつも,後半の方では,
つみのせんさくせぬ人は,のれんすがりかほたすがり,閻魔の前で,いんま後悔.つみのせんさくする人は,ここで金剛心をいただく
と蓮如とは異なった結論をだしています.おそらく才市は,・・・父親のことを早く死んでしまえと思った自分の罪を苦しんだ若い日の苦しみを思い,その苦しみを見つめることを通じてはじめて,自分は如来の誓いがわかったのだと・・・・.彼は蓮如上人の仰ったことを一応認めながら,ただ人にはそれぞれ自分の宗教的な経歴というものがあるから,それはその経歴に基づいて自分にふさわしく味わっていく事が必要だというような非常に主体的な考え方を持っていたということが分かります.素直な帰依のこころと,あくまで自分の主体性を大切にするという両面が実に適切な仕方で共存している.この歌は才市という人の宗教者としての個性が実によく出ている素晴らしい歌だと思います.
(源 pp.38-39)
「人にはそれぞれ自分の宗教的な経歴というものがある」.それらすべてを,包み込み,あらゆる手立てを尽くしておさめとってくださるのが阿弥陀如来であると聞かせていただいています.
【補足】
楠 2-9:楠 恭 編『定本 妙好人才市の歌 全』 二の第九ノート(二の239頁)
源:源 了圓(東京本願寺教学部編)『妙好人と蓮如上人』(第29回秋季浄土真宗大学講座)東京本願寺, 2000.「・・・」は引用に際して省略した部分