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才市って誰? その4
私のために書かれた本
2001. 2.13

「私のために書かれた本」をもっていますか?

私のために誰かが書いてくれた本? そんな本はないけど....

もちろん,文字通り,自分のために書かれた本を持っている人は少ないだろう. でも,ある本を読んで,まるで自分のために書いてくれたような本だ,と感じたことはないかな.昔は,『トニオ・クレーゲル』とか『車輪の下に』,あるいは『若きウェルテルの悩み』などがそんな本だと言われていたが.

どれも読んだことがない.でも,そう感じる本があればいいだろうね

才市の御文章

才市さんにはそういう本があった.右の本がそうだ.

なんか,ぼろぼろ.何の本?

『御文章(ごぶんしょう)』という.蓮如上人のお手紙を集めた本だ.『御文(おふみ)』と呼ばれることもある.

あっ,蓮如さんって知ってる.五木寛之の本で読んだ. 親鸞聖人の子孫で,本願寺を大きくした人でしょ.

本願寺第八代.中興の祖と言われている.この『御文章』はお説教の後にほとんどいつも読み上げられるし,たいていの真宗の門徒さんの家にも置いてある.

それを才市さんはぼろぼろになるまで愛読したのか.白くなっているのは指の跡だね.表紙に穴が開きそうになっている.

蓮如上人に「御聖教は読み破れ」というお言葉があるが,才市さんは,文字通り読み破りそうになるまで,繰り返し読んだのだ.

才市さんにとっては,自分のために書かれたような本だったわけね.

実際に才市さんがそう言っている.上の写真をクリックしてもらえば,「これもわしが」という才市さんの書き込みが見える.「これもわしがため」,あるいは「これもわしがもの」という意味だろう.『御文章』の一通一通を,自分のために書かれたと受け取っていたわけだ.

でも,なんか読みにくそう.漢字とカタカナばかりだし,難しい言葉が多い.

現代のわれわれには読みにくいかも知れないね.ただ,漢字には全部読み仮名がついている.才市さんは熱心に聴聞して,つまりお説教を聞いて,難しい仏教用語も耳で覚えていたようだ.たとえば,一回目に出てきた歌に

親子三人もろともに 衆生済度の身とはなる

という一句があったが,この「衆生済度」は,実際には「しゅ上さど」と書かれている.だから,振り仮名さえあれば,意味は分かったのだろう.

もっとも,長めの章の後には,「これはながかった」などという書き込みもあったりするが.

ちょっと笑える書き込みだね....でも,蓮如さんって,才市さんより500年くらい前の人でしょ.そんな昔の本を自分ために書かれたと思えたなんて,うらやましい....

そうだね.宗教ということを離れても,昔の人が書いた本を“心の友”とできることはすばらしことだと思う.ただ,宗教では,ここが決定的な分かれ道になる.

なんの分かれ道?

宗教を,知っているか,信仰しているかの分かれ道だ.いくらある宗教に詳しくても,あるいは,その宗教に深い思想的意義を認めても,それが自分のために説かれた教えだと感じられなければ,それは単なる知識・理解であって,信仰・信心ではない.才市さんにはこんな歌もある.

蓮如さんは よい人よ
御文書様をこしらえて
それを才市が丸もらい
ご恩うれしや なもあみだぶつ

「丸もらい」か....本当に“自分のための本”だったんだね.

才市さんは仏法自体を自分のために説かれたと受け取っていた.次回は,それにまつわるエピソードを....


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