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才市って誰? その3
才市の歌碑:かぜをひけば...
1999.12.12, 2014.02.21 改

才市さんの歌碑があると聞いたけど...

1956年(昭和31年)に,才市25回忌法要があったとき,記念事業として 安楽寺境内に建てられた.今年(1999年),境内整備の際に,少しだけ移動 したが.

才市の歌碑

刻んである歌は,北原白秋が感動した歌だそうだけど, どんな歌? 右の写真ではちょっと読めない.

例によって右の写真をクリックしてもらえば拡大写真が現われるが, 刻まれているのは次の歌だ.

かぜをひけば せきがでる
さいちが ごほうぎのかぜをひいた
ねんぶつのせきが でる でる

「ごほうぎ」って何?

漢字で書けば「ご法義」.つまり,「仏法の義」,「仏教の教え」という意味だ. 「ご法義が盛んな土地柄」という言い方がある. 仏教が深く浸透している地域ということだね,

じゃ,「ご法義の風邪をひく」というのは?

真宗の信心を得た,という意味だ.

「ご法義」が分かれば,すごく分かりやすくて,すぐ覚えられるような歌だね. 口調もいいし.

そうだね.才市さんの歌は大体こんな感じだ. 方言を交えた平易な口語で詠まれている. 北原白秋もそういうところにひかれたのだろう.

でも,セキが出るように念仏が出るなんてちょっと意外. 「心の底から誠心誠意お念仏をとなえ,その真心が仏様に通じて救われました」とか, そんな宗教的感動が歌われているのかと思ってたんだけど....

そういうのを「自力の念仏」というのだ. 真宗の要は「他力」だけど,この他力がなかなか難しい.

どうして? 全部まかせてしまえばいいのだから,簡単なことじゃないの.

そのはずなのだがね.でも,本当に全部まかせられるかな. と言うか,本当は全部まかせておきながら,自分の手柄にしていないかな.

あっ,いるいる.人に仕事をさせておきながら,自分がやったみたいに自慢するやつ.

そういう自慢をする人は,多分,本気でそう思い込んでいるのだろう. 実際に仕事をしたのは彼だが,俺が教えてやったからできたんだ,などとね. でも,私たちは皆そうなのではないだろうか.

真宗は他力の教えだと知っているはずの人が, 「これだけ熱心に信心しているから,お浄土は間違いない」と思っていたりする. 他力と言いながら自分の手柄・努力を誇りたいわけだ. 誠心誠意お念仏をとなえて,その真心を仏様に認めてもらおうというのも同じだ.

だから,風邪をひいたらセキが自然にでるように, 称えようと思わなくても自然に出てくる念仏でなければ,本物の他力の念仏ではないっていうわけか.

私は子供の頃,客殿(客間)と小庭を挟んだ向かいの部屋に寝ていた. 客殿にお坊さんがお泊まりになっているとき, 夜中,真っ暗な客殿の方から「ナマンダブ」と念仏が聞こえてくることが よくあった.トイレか何かで夜中に目覚めたとき,ふと念仏が 口をついて出てきたのだろう.ああいうのが,本当の他力の念仏なのだろうね.

才市さんにこんな歌がある(用字を一部改めた).

こんな子が
出んな(出るな)と言うに また出たよ
でば(出場)がないから 口に出た
また 出るよ
なむあみだぶと 言うて出る

一行目の「こんな子」というのは,この辺の方言で, 「この子」という意味だ. 子供が悪戯をしたりすると, 「こんな子が,また悪さをして」と叱られる. 「こいつ」という感じかな. 思わず出てくる念仏をちょっとユーモラスに歌ってるね.

じゃ,お寺に参ったときなんかに, お寺に参ったのだから念仏しなきゃ,と思って念仏を称えたりしてはいけないんだね.

いや,そういうことでもない.たとえばあなたが風邪気味だとする.どうも喉がイガイガしてタンがつまる.なんとも不愉快だ,「ゴホン」と一発セキをする....さて,このセキは「自力」かな,「他力」かな?

自分でしようと思ってしたんだから「自力」でしょ.

風邪をひいていないとき,セキをしようと思うかな.

そうか.自分でしようと思ったセキでも,風邪をひいてるからそう思ったんだ. 自分でしようと思ってした念仏でも...

実は阿弥陀如来の光に包まれているからそんな気になったのだ. そう味あわせていただいて念仏すればいいと思う. そうすれば,念仏の機会が与えられたことを喜べるようになるだろうし,やがては,念仏が自然と出てくるようになるだろう.

念仏するのも阿弥陀さまのお蔭げ,か...
だったら,「ご法義の風邪をひく」 という言葉も,その線で解釈できるね. かぜをひくのは当人の手柄じゃない. むしろ,かぜをひくまいと思っていても,かぜの方から寄ってくる.

阿弥陀如来は 「逃げる者を追っかけてでも救う」と いう親鸞聖人のお言葉がある. 「ごほうぎのかぜをひく」にはそれに通じる味わいがあるね.

さっき,「信心を得る」という言い方をしたが, 信心は,阿弥陀如来から頂くものなのだ.

お念仏も信心も,阿弥陀さまから私へのすばらしい贈り物なんだ.
でも,私はまだもらっていない...

そうかな.とっくに受け取ってるのではないのかな. ちらかっているガラクタの蔭に隠れて, あなたに見えないだけでは?  それとも,空気の存在に気付かないように,あるのが当たり前と思って, その存在に気付かないだけでは?


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