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才市って誰? その1
才市って誰?
1999. 9. 5, 2014. 2.21 改

才市さんて誰?

浅原才市.若い頃は船大工,晩年は下駄職人をしていた人だが,鈴木大拙師が,「日本的霊性」の代表的存在として外国に紹介したり,最近では水上勉氏が『才市』という著書で取り上げている.

下駄の歯に記されたくちあい

いつ頃の人?

ペリーが浦賀にやってくる3年前の1850年に, 島根県の温泉津(ゆのつ)町小浜(当時は石見国小浜村)に生まれ, 満州事変(1931)の翌年1932年に死んだ. 父は要四郎,母はスギといった.

どうしてそんなに有名なの?

才市さんの遺した「口あい」と呼ばれる詩のためだ. 真宗では,深い信仰をもって人生を歩んだ人 (特に,僧侶や学者ではない普通の人々) を「妙好人」と言っているが, 才市さんも,その「口あい」に表わされた信心の深さから 「昭和の妙好人」とも呼ばれている. また,才市さんの「口あい」を読んだ北原白秋は,「こんな歌は私には作れないなあ」と 言ったとか.方言を交えた素朴な語り口が詩人の胸を打ったのかもしれない.

才市さんの詩はどのくらいあるの?

正確にはわからない.才市さんは,折りに触れて念仏と共に口からあふれ出る歌をカンナ屑や下駄の歯切れなどに書き留めた.下駄職人だったから,手近にあるものに書き付けたわけだね. そして,一日の仕事が終わった後でそれを何度も読み返し味わっては「お念仏」を喜び,そのあとは燃やしてしまっていたという. 才市のノート(表紙) それを惜しんだ人にすすめられて「口あい」をノートに清書するようになったのが 60歳過ぎのこと.そのノートは70冊にもなり,歌われた歌は一万首に及ぶという.ただし,その多くはこの前の戦争で焼けてしまった.残っているのは四千首くらいだろうと言われている.

詩集なんかも出してるわけ?

才市さん自身は一冊の本も発表していない.そんなこと, 考えてもいなかった.「口あい」を記したノートについて, 「他人に見せるために書いたのではないから」と言っている. 才市さんの詩を読む機会に恵まれた少数の人たちだけが,その素晴らしさに気付いていた.そういう人たちによって詩が紹介されることによって, 少しずつ有名になったわけだ.

じゃ,見掛けは平凡な一生を送った人だったんだ.

そう. 才市さんの日常生活は実に平凡で目立たない人だったという. ただ,11歳の時に船大工の弟子として 親戚の家に引き取られているし, 子供の頃はけっこう辛かったと思う. 親に対する恨みも感じたようだ. ところが,才市さんが45歳のとき,父が82歳で往生した.その死を才市さんは 「親の遺言,南無阿弥陀仏」と受け止めた. この後,聴聞を重ね,60歳を過ぎた頃から次第に心が明るく開けていったようだ. 両親についても,

わしが父親 八十四歳/往生しました お浄土さまへ
わしが母親 八十三歳/往生しました お浄土さまへ
わしもゆきます やがてのほどに
親子三人もろともに/衆生済度の身とはなる
ご恩うれしや なむあみだぶつ

と歌っている(引用に際して,用字を分かりやすく改めた)

衆生済度の身って何?  他にどんな歌があるの? 角の生えた肖像画が有名って聞いたけど何のこと?

そういったことは頁を改めてまた.


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