才市が あさましさんがありがたい
南無さんを当ててもろうて
弥陀さまになること いただくこと
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
(才市さん,鈴木-30:090)
先日,隣町のお寺で「さかなの法座」のご縁を頂きました.漁業がさかんな町で,「魚の命を取って生活しているから」と,漁業組合の方が中心になって昔から続けられている法座だそうです.隣町でありながら,こういう法座が続いていることを知りませんでした.県内でも珍しいという話でした.
人間は他の命を犠牲にしないと生きていけません.しかし,普通は,そのことを忘れる,というか,気にかけずに過ごしています.それどころか,さらにタチの悪いことに,命を奪う仕事を人に押しつけて,そういう人々を穢れていると差別し,自分は清浄であるかのような顔をすることさえあります.
漁業という仕事をしていると,いやでも,他の命を奪わないと人は生きていけないという事実に直面させられます.そういう浅ましさをご縁にして,仏法を聞かせていただくというのが「さかの法座」でしょう.
才市さんの口あいのおおよその意味は:
この才市の浅ましさがありがたい.(というのは,その浅ましさがあるからこそ)
南無阿弥陀仏(のお目当てとして光)を当てていただいて,
仏にならせていただくこと(を聞かせていただくこと)があるから.
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
ということになるでしょうが,浅ましいからこそ,阿弥陀様のみ教えを聞くご縁をいただくことができた,と味わうこともできます.
他の命を奪わないと生きていけないという事実に直面した時,それに耐えきれず,正当化しようとする言葉もよく聞きます.「お魚は食べられるのを待っている」とか,「牛は人に食べられるために存在する」など.そんなごまかしをせず,「さかなの法座」が続けられていることを,ありがたいことだと思いました.
罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし
(高僧和讃 40)
【補足】
才市さん,鈴木-30:090:鈴木大拙編著『妙好人浅原才市集』, ノート30の90番(p.431).
暇つぶしの余談:才市さんは,「南無さんを」を「なむ三」と書いています.「三」で連想するのが,「南無三(南無三宝)」という言い方.年を経た猫が,つい,「南無三(残念)!」と言って,人の言葉が分かることがばれた,という話があるそうです.真宗では(才市さんも)「南無三」とはあまり言いませんし,この口あいの最初は「さいちがあさまし三が」と書かれていることからも,この「なむ三」は,「南無三」ではなく,「南無」に敬称の「さん」を付けたものと思われます・・・と,分かり切ったことを書いたのは,「南無三」と言った猫の話をしたかったからです.失礼しました.
高僧和讃 40:『真宗聖典 註釈版』, p.585.