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「猿猴捉月」覚書
旧ブログ 2016年1月 3日 (日)

 今年はサル年ですね.インターネット上でも,サルに関わる話が花盛りです.「猿年」じゃなくて「申年」だ,とか,年賀状にオランウータンの絵を入れるのは妥当かどうか,とか,賑やかなことです.
 仏教がらみの猿と言えば,有名なのは,孫悟空と「猿猴捉月」の猿でしょうか.今年の元旦会では,この「猿猴捉月」についてお話させていただきました.以下,その覚え書きです.はっきり分からないことがいろいろありますので,よろしければご教示ください.

 さて,「猿猴捉月」とは,サルが,水面に映った月を取ろうとしたというお話です.「猿猴が月」,「猿猴月を取る」とも言うそうです.暗灰色の毛がムクムクっとした猿が,左手で枝にぶら下がり,右手を水面に映る月に伸ばしている日本画をテレビか何かで見た覚えがありますが,あれですね.インターネットで検索してみるといろいろなヴァリエーションがあるようです.その出典は,『僧祇律』というお経の「卷第七」にあるということなので,『大蔵経』検索サイトで探してみたら,次のような話がありました.

昔,猿の群れが,林の中をぶらついていると,一本の木の元に井戸があるのを見つけた.井戸を覗くと月影が映っている.それを見て,猿の親分が仲間の猿に言うには,
「月は,今日,井戸の中に落ちて死んでいる.皆で月を助け出そう.長い夜の間,世界が闇に覆われてはならない」.
これを聞いて仲間が言った.
「どうやって助けるのですか」
親分は答えた.
「私は助け出す方法を知っている.まず,私が枝をつかんでぶら下がる.お前は私の尻尾をつかめ.そうやって,次々と繋がっていけば,救い出すことができる」
そこで猿たちはすぐに親分の言う通り,次々と繋がっていった.しかし,水面に達する前に,連なった猿が重くなりすぎて,弱い枝が折れ,猿は皆,水中に落ちてしまった.
 愚か者の群れは,愚か者に率いられる.自分自身が迷いの中にいるものが,どうして人々を救うことができるだろうか.
(大意,意訳)

 この譬え話では,多数の猿が連なって,井戸の底の月影に手を伸ばしていますが,絵などを見ていると,一匹の猿が,川面か湖面に映った月影に手を伸ばしているものが多いようです.ひょっとすると,そんな,別の話があるのかもしれません.
 この話は,愚か者が愚か者を率いて主従ともに滅ぶという喩え話で,お経は,このあと,この猿の主従は,提婆達多と,彼に惑わされたお弟子たちの前世における姿である,と続いています.

 この譬え話は,いろいろに味わあれているようです.

1) 身の程しらずの願望を抱いて身を滅ぼすこと.「朝鮮まで猿猴[秀吉]は手を伸ばし」という川柳があるそうです.

2) 幻を追い求めて苦悩すること.

以上は,元の意味に近い受け取り方で,月影を月と間違え,それを取ろうとした猿を否定的に受け取っています.ところが,あるサイトに次のような言葉がありました.

3) 「美しいものを慕う気持ちと真理を求める気持ちはひとつであろう。彼(月と取ろうとして水中に落ちた猿)を嘲う知性こそ猿智恵というものだ」
 「星を求むる蛾の願い」という言葉がありますが,それに通じる味わい方ですね.元の譬え話が意図していたこととはまったく違いますが,この味わい方が一番好きです.

 以上,とりとめのないメモですが,ま,こんなメモを元に,お話させていただいているわけです.

【補足】
 私の漢文の読解力はかなり怪しいので,お経の該当場所をそのまま挙げておきます.『SAT 大正新脩大藏經テキストデータベース』からお借りしました.

T1425\_.22.0281a16: 摩訶僧祇律卷第七
T1425\_.22.0281a17: *東晋天竺三藏佛陀跋陀羅
T1425\_.22.0281a18: 共法顯       譯
          ・・・[中略]・・・
T1425\_.22.0284a11: 諸比丘白佛言。已曾爾耶。唯願説之。佛告諸
T1425\_.22.0284a12: 比丘。過去世時。有城名波羅奈。國名伽尸。
T1425\_.22.0284a13: 於空閑處有五百猿猴。遊行林中。到一尼倶
T1425\_.22.0284a14: 律樹。樹下有井。井中有月影現。時猿猴主
T1425\_.22.0284a15: 見是月影。語諸伴言。月今日死落在井中。
T1425\_.22.0284a16: 當共出之。莫令世間長夜闇冥。共作議言。云
T1425\_.22.0284a17: 何能出。時猿猴主言。我知出法。我捉樹枝。汝
T1425\_.22.0284a18: 捉我尾。展轉相連。乃可出之。時諸猿猴即如
T1425\_.22.0284a19: 主語。展轉相捉。小未至水。連猿猴重。樹弱
T1425\_.22.0284a20: 枝折一切猿猴墮井水中。爾時樹神便説偈
T1425\_.22.0284a21: 言
T1425\_.22.0284a22:     是等ガイ榛獸 癡衆共相隨
T1425\_.22.0284a23:     坐自生苦惱 何能救世間
T1425\_.22.0284a24: 佛告諸比丘。爾時猿猴主者。今提婆達多是。
T1425\_.22.0284a25: 爾時餘猿猴者。今六群比丘是。爾時已曾更
T1425\_.22.0284a26: 相隨順受諸苦惱。今復如是。佛告諸比丘。依
          ・・・[以下略]

なお,上の引用中の「猿」は,本当は,ケモノ偏に「彌」を書き「ビ」と読む字で,「おおざる」という意味だそうです.うまく表示できるかどうかわからないので「猿」に置き換えました.また,「ガイ」は,「馬」に「矣」で,「愚か」という意味だそうです.

 次に,よく分からなかったところを書きつけておきます.どなたか,ご教示ください.

 「小未至水」:「未だ水に至らずして」でしょうけど,最初の「小」が分かりません.「あと少しだが」ということ? 逆に,「連なったが,長さは短くて」という意味でしょうか.あるいは・・・?

 「爾時樹神便説偈」:「このとき,樹神さらに偈を説いて」くらいの意味だと思いますが,それでいいですか.そうだとすれば,「樹神」というのは何でしょうか.井戸の横の樹に精霊のようなものが宿っていて,それが一部始終を見ていて以下の偈を説いた,ということ?

 「是等ガイ榛獸」:「これら愚かな榛獣」.「榛」とはハシバミのことだが,草木が乱れ茂るさまを表わす・・・と辞書にありました.この場合,猿がごちゃごちゃ群れていることでしょうか? 動物についても言うのですか?

 「坐自生苦惱」:「坐して自らは苦悩に生きる」ですか? 前後の繋がりから,「自分自身が迷いに捉われているくせに」くらいの意味だろうと見当をつけたのですが
(高校の時,もっと漢文を本気でやっとけば良かった・・・).

味わいの3は,どこでみたのかメモするのを忘れてました.

コメント

この記事を書いたのち,読みかけの小説の続きを読みだしたら,次のような一節にであいました.この手の偶然(?)は時々ありますが,この正月も確かに生きていて本を読んでいたという記念に(?)書きつけておきます.

「ねえ,知ってる? 李白.昔の中国の詩人の.酔っ払って舟に乗っていて,水に映った月と取ろうとして手を伸ばして,川に落ちて死んじゃったんですって」と言った.
「うん,李白ね.笑って答えず心自ら閑なり・・・・・・」
「馬鹿よね」
「うん,心自ら閑なりだもんな」
「馬鹿な爺さん」
「でも,羨ましい」
(松浦寿輝『幽』, 講談社, 1999, pp.129--130)

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