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「惠蛄,春秋を知らず・・・」
旧ブログ 2015年9月 3日 (木)

惠蛄《けいこ》春秋を知らず,伊虫《いちゅう》あに朱陽《しゅよう》の節を知らんや
(セミは春や秋を知らない.この虫が,どうして夏を知っていることがあるだろうか.夏も知らないのである)

前置き
 この譬えは,“春・秋を知らないセミは,実は,夏も知らない.我々も同じですね”という感じでよく引用されます.そのとき,うっかりすると,セミのことを,無智の例として否定的に聞いてしまいかねません.でも,元々の意味は,“それにもかかわらずセミは一心に鳴いている.これは,私たちがお念仏を称える際のお手本だ”ということのようです.
 実は,ずっと以前に,この話についてはそのうち書きますと言ったままになっていました.8月はとうとう一度もブログを更新しませんでしたので,今回は穴埋め的に,遅ればせながら,この公約(?)の実行を・・・.
 とは言うものの,この話,結構ややこしいですね(少なくとも私には).曇鸞大師のお書きになったものにある譬えなのですが,話が何重にも重なっていて頭がオーバーヒートを起こしそうです.曇鸞大師がこの譬えを引かれた真意に行きつく前に息切れしてしまいそうな感じ.しかも,曇鸞大師は,お念仏を称える回数という文脈でこの譬え話を出されているのですが,その文脈では,なんだかややこしそうな議論が背後に控えている気配です.
 そこで,以下の話では,お念仏の回数という本来の文脈には捉われず,また,途中で息切れしないよう,話を3段階に図式化してみました.3段階というのは,(1)元の意味,(2)その深読み,(3)さらにそれをひっくり返す話,という3段階です.
 では,ゆるゆると参りましょうか.

(1) 元の意味:惠蛄春秋を知らず
 これは,元々は,『荘子』の「逍遙遊篇第一」という部分にある譬えだそうです.すこし前の部分から,途中を省略して引用すると:

小知は大知に及ばず,小年は大年に及ばず.・・・朝菌は晦朔を知らず。惠蛄は春秋を知らず.
(小さな知識は大きな知識の範囲を収められない.それは一二年の短年月が,長い年月にはとても及ばないようなものだ.・・・    朝だけの短命な菌類(きのこ)は,昼間が夜間へと推移するのを知らない.蝉は春が秋へと推移するのを知らない.)

 「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」,「井の中の蛙大海を知らず」などと似た意味ですね.夏になって初めて地上に出てきて,秋までに死んでしまうセミは,春や秋,冬のことを知らないし,話を聞いても理解できないでしょう.同じように,私たちも,自分の経験や知識,理解力を越えたことは理解できません.それどころか,私たちは,自分の経験を越えたことを否定してしまいがちです.「自分の理解し得ぬことをあざ笑うは人の常なり」という外国の諺があるそうです.
 「お浄土があるというなら,その証拠を見せろ」というのは,「冬に雪というものが降るというが,それならば雪というものを見せてみろ」とセミが息巻いているのと同じではないか.「ケイコ春秋を知らず」という譬えで荘子が問いかけているのはそういうことでしょう.

(2) 深読み:どうして夏を知っていることがあるだろうか
 さて,曇鸞大師はこの荘子の言葉を引用し,そのあとに「あに朱陽の節を知らんや」と付け加えられています.夏にだけ生きているセミは,秋・冬・春を知らず,夏だけを知っている・・・のではなく,実は,夏も知らないというのです.これはどういうことでしょうか.
 海外に出て日本の良さが分かったという人がいます.逆に,外国と比較して日本の欠点がよく見えるということもあるでしょう.日本の中にいて日本のことしか知らない間は,日本の良さや欠点になかなか気づかず,日本の外に出て,外国と比較し,外から日本を見ることによって初めて日本の特徴が分かる・・・この譬えは,そういうことを言っているのでしょう.
 夏しか知らないセミは,暑くても,世の中こんなものだと思っていて,夏だから暑いとは思っていない.これに対し,人間は,春や秋を知っているから,今は春でもなければ秋でもなく,夏である,と分かる.だから,春や秋を知らないセミは,夏を本当に夏と知っているとは言えない.今が夏であることを知るためには,夏を越えて,秋や春という季節があることを知っていなければならというわけです.
 「自分のことは自分が一番よく知っている」などと言いますが,実は,自分がどういう人間か,自分のことばかり見ていても分かりません.他人を見て,ああ,自分は背が高いのだ,とか,社交的だ,などと分かります.
 同じように,私たちの本当の姿を知るためには,私たちを越えた,仏様の姿を知らなければなりません.あるいは,この世界が実は迷いの世界であることを本当に理解するためには,この世を越えた,迷いのない世界を理解しなければなりません.さらに言えば,死を知らない限り,この生も,本当には理解したと言えないのです.
 才市さんに「南無仏は よい鏡 法も見えるぞ 機も見える」という口あいがあります.「法」というのは仏の真実,「機」というのは私の正体です.私の正体は,仏様の真実の姿を見て初めて分かる.「あに朱陽の節を知らんや」とは,そのことを裏から言った譬えです.

(3) 逆転:でも,セミは一心に鳴いている
 いよいよ,曇鸞大師がこの譬えを引かれた真意です.
 セミは春・秋を知り得ず,それゆえ,今が夏であることも知らない.私たちも,死について知り得ず,それゆえ生の意味も知らない.では,生きていても無駄なのか.
 決してそうではありません.確かに,セミは春夏秋冬を知りません.でも,このひと夏を一心に鳴き,その命を輝かせています.同じように,私たちは,生死の本当の意味を知らなくても,今を一心に生きればよい.仏様の智慧と慈悲が完全に理解できなくても,人間を越えたものを認め,その前に頭を垂れればそれでよい.お浄土の本当の姿が理解できなくても,清らかな真実の世界があると聞かせてもらい,それに肯けばよいのです.

結び
 この夏,ごく近所のご門徒の方が往生なさいました.その方は,毎朝のようにお寺に来て庭の掃除・草抜きをしてくださるなど,本当にお寺を大事にされただけでなく,熱心に聴聞された方でした.でも,最後は,身体も心も弱られて,遠くの病院に入院され,そこで往生を遂げられました.そのお通夜で,お元気な頃の熱心なご聴聞の様子を偲びながら,次の歌を紹介させていただきました.

往生はと 父に問われて ほほえみぬ 弥陀にまかせて わすれたりけり

往生の道を熱心に聞き分けてきたが,いよいよ最後となった今,往生のことは阿弥陀様にすべてお任せし,自分では,もう忘れてしまった.聴聞したことはみな忘れてしまったけど,安んじて阿弥陀様にお任せして微笑むことができる.そのことを聞かせてもらうのが聴聞であった・・・.
 春秋を知らず,自分が生きている今が夏であることさえ知らないままに一心に鳴くセミ.その声を聞いた時,そんなセミを憐れむのではなく,セミに倣って,ただお念仏を称えさせていただけばよい.それが,曇鸞大師がこの比喩でおっしゃっていることであると聞かせていただきました.

おまけ
 先日の盆法座では若院が法話をいたしました.大学のゼミで東北地方の震災被災地を訪れ,被災された方からお話を聞いたときのことを話しました.被災の惨状は現地に行ってみなければ分からない,いや,それどころか,被災された方のお話を聞くと,「つらいお気持ちはよく分かります」などと安易に言えなくなると申しておりました.「分かった」などと言うのは傲慢ですらあるという思いに打ちのめされたようです.
 では,震災に遭われた方のお話を聞いてもしょうがないのでしょうか.そうではありません.本当の苦しみは理解できないことを承知の上で,それでもなお,震災に遭われた方の話に一心に耳を傾けることが大切なのではないでしょうか.それが「寄り添う」ということではないでしょうか.

【補足】
 「惠蛄春秋を知らず」の譬えは,本願寺出版の『浄土真宗聖典 七組篇(注釈版)』, pp.98--99にあります(曇鸞大師『往生論註』).
 これを親鸞聖人が『教行信証』の「信巻」に引用されています.その部分の訓読と現代語訳は,本願寺出版の文庫版『顕浄土真実教行証文類 現代語訳付き』, 「上」の pp.562--563.

 『荘子』は,岩波文庫, 『荘子』, 1,  pp.21--24.

訂正追記(2015.09.11):「曇鸞太子」→「曇鸞大師」(^^;).

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