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[才市] 衆生済度の仏になる
旧ブログ 2014年6月28日 (土)

さいちがしやわせ ぶつ《仏》になる
しゅ上さいど《衆生済度》の ぶつになる
なむあみだぶと もうすほとけに
(楠,一, p.190)

 仏教にはさまざまな宗派がありますが,仏教である限り,その最終目標はこの私が仏になることです.
 私たちの浄土真宗では,お浄土へ生まれさせてもらうことが強調されますが,お浄土に往生させてもらうのは,そこで仏になるためです(「Wikipedia」の記事の表現を借りれば,「往生とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである」.方法論なんて言うと身も蓋もない感じですが,でも,その通りですね).
 では,仏になるとはどういうことか.それは,人間として完成されることです.では,さらに,完成された人間とはどういう人か.それは,人々を,命あるものすべてを思いのままに救い(衆生済度),それを無上の楽しみとして,そこに何も濁った思いが混じらないような人です.親鸞聖人はこのことを『正信偈』で,

得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死園示応化

阿弥陀仏の浄土に往生すれば,ただちに真如をさとった身となり/さらに迷いの世界に還り,神通力をあらわして自在に衆生を救うことができる

とお示しになっています.

 才市さんの口あいには,上に引用した口あい以外にも,「衆生済度をさせてもろうて」,「衆生済度の身とはなる」などという言葉が何度もでてきます.お浄土に生まれるはと,仏にならせてもらうこと,つまり,衆生済度の身にならせてもらくことであることを聞き分けていたことが窺えます.
 さらに,「衆生済度」という少し難しい漢語を「しゅ上さいど」などという当て字で表しながら,その意味はきちんと把握されていることから,才市さんは,文字通り,耳から聴聞していたことが分かります.
 翻って,自分はどんな聴聞をしているのか,省みさせられる口あいです.

【補足】
 楠, 一, p.190:楠恭編『妙好人才市の歌 全』の一, p.190(一の第5ノート, 38番).

 正信偈の現代語訳は『顕浄土真実教行証文類(現代語訳)』(本願寺出版, 2000, p.148).引用中[ ]内は,引用者補足.

 “仏とは人間として完成されたもの”というのは多分間違いではないと思いますが,今,そういう言い方をしている経典を思い出せません.どなたかご教示ください.ただ,覚りを開いて仏になった方を「目覚めた者」とか「修行完成者」と呼ぶことがあります.これを,“人間として完成された者”と受け取っても誤解ではないと思っています.

 才市さんの口あいを味わうとき,その表記はあまり気にしなくていいのではないかと思っています.つまり,才市さんが「しゅ上さいど」と書いているところを「衆生済度」と書き直してもそれほど差支えないだろうと.その理由は,本門に書いた通り,才市さんの口あいは耳にどう響くかが大切で,どう表記されているかはそれほど重要ではないと考えるからです.
 もちろん,独特の表記から才市さんが偲ばれる,ということはあります.でも,これは,作家の作品を自筆の原稿で読むと味わい深いというのと同じです.また,用字の癖の変化から書かれた時期が分かるという話もありますが,これも研究者が作家の自筆原稿を研究するのと同じことですね.我々一般読者は,普通は,活字本で十分です.同じように才市さんの口あいを味わうのも,普通は,表記を改めたもので十分だろうと思います.

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