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石州小浜は
旧ブログ 2012年9月 3日 (月)

 才市さんは,「石州小浜は よいところ 知識[師]にあわせて弥陀を聞く」と歌っていますが,今日は,その小浜とお隣の温泉津について.
20120903_map

 google map あたりで見ていただくと分かるとおり,このあたりは山が海岸に迫り,海岸端と谷間に人家が密集しています.上の地図で言うと,上と中央を横に走る道,そして左下の縦の道(Cから「広域交番」)が谷間の道です.一方,「焼き物館へ」続く縦の道は,谷と谷を結ぶ山道で,9号線は,あるときは谷に沿い,あるときは山の中をトンネルで突っ切りながら伸びています.
 「温泉津」とは,(狭くは)地図の上部,「温泉津温泉街」付近を言い,中央とそれより下のあたりが「小浜」です.因みに,中央の川を「浜田川」,それにかかる橋を「浜田橋」と言います.昔はこの川を渡って浜田へと向かっていたので,そう呼ばれようになったそうです.つまり,小浜地区は,「温泉津」の村はずれだったわけですね.

 さて,才市さんの父,要四郎の本家,は鍛冶屋の息子ですが,その鍛冶屋はAにありました.また,要四郎の母(つまり,才市さんのおばあさん)の実家はCの大家屋です(大家屋は,後,H付近に引っ越す).
 この要四郎は,Bの原田屋の娘スギと結婚し,才市が生まれますが,まもなく離縁.スギはDにあった小鉄屋へ再稼し,才市さんはCの大家屋に引き取られました.こうしてみると,非常に狭い範囲で行き来しているのがわかります(縮尺はおおよそのものです).

 才市さんが独立して一家を構えたときの借家はEにあり,G(「才市さんの家」)は,晩年に建てた自分の家です.ちなみに,例の「角の生えた肖像」を才市さんが書かせたのは,EからGに引っ越すすこし前で,絵を依頼した若林春暁画伯はFあたりに住んでいたそうです(これはちょっと未確認).それこそ,石を投げれば当たりそうな距離に画家がいたわけです.

 最後におまけ:Hは小浜地区の温泉(銭湯)で,最近は「才市の湯」と呼ばれています.

【訂正 2016年6月5日, 17日】

1) 若林春暁画伯宅(F)の位置について,「ちょっと未確認」としていましたが,若林家分家筋の御当主に確認したところ,少しずれていましたので,地図を修正しました.上の図のFの位置(川沿い)が正しい位置だそうです.これに合わせて,本文も取り消し線で訂正しました.なお,国道9号線付近に自動車道ができましたが,図では省略しました.

2) 才市さんの父,要四郎を「鍛冶屋の息子」と書きましたが,才市さんの「鹿島屋」が本家鍛冶屋から分家したのは要四郎の父,伊三郎の代ですので,修正しました.鹿島屋は,
  1. 鍛冶屋の次男,伊三郎 -- 2. 市太郎(伊三郎の長男) -- (同次男,要四郎) -- 才市
となります(佐藤平「才市年譜」(『大谷女子大学紀要』, 1986, pp.40--49), p.36 参照).
 なお,伊三郎,市太郎,要四郎の家,才市さんの生まれた家などは不明です.市太郎くらいまでは,本家と同居に近い状況だったのかもしれません(根拠のない憶測です).

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