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[才市] 唯の唯もいらぬ 唯の唯なり
旧ブログ 2011年7月 9日 (土)

ただなしの
ただのただもいらぬ
ただのただなり
やれ らくなのう
おもに《重荷》 とられて らくらくのらく
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』, pp.31--32)

 形としては,以前ご紹介した“他力には,自力もなし,他力もなし・・・”と似ていますが,言葉遊びのような印象を与える口あいです.

 最初の3行は,つぎのような意味でしょう.

1:「ただ」なしの,すなわち,
2:  「ただの」と言うが,その「ただ」という言葉さえいらない
  (単なる「ただ」という言葉さえいらない)
3:単なる「ただ」である.

 「ただ」を重ねることによって,“「ただ」と言う必要さえない”と言っているわけで,この辺が言葉の働きの面白いところです.そうやって「ただ」を重ねた勢いで,「らくらくのらく」と「楽」が重なったのでしょう.

 “世界は無限,言葉は有限”という言葉を聞いたことがあります.無限の世界を有限の言葉によって記述し尽くすことはできません.それを無理にしようとすると矛盾や“単なる言葉遊び”に陥ってしまいます.ところが,それを逆手にとって,矛盾的表現や言葉遊びによって無限の世界を有限な言葉によって指し示す・・・
 なんだか,ややこしい言い方になってしまいましたが,例えば,“言うに言われぬ面白さ”などという言い回しの妙ですね.この言い方,耳慣れてしまっていて,“妙”とも感じませんが,考えてみれば面白い表現です.“言うに言われぬ”,つまり,言葉では表現できないものを“言うに言われぬ”という言葉で表現しているわけですから.

【補足】
 ホッフスタッター『ゲーデル,エッシャー,バッハ』という本がありました.翻訳が出たとき,かなり話題になったと記憶します.この本に,“システムからの脱出”という主題を扱った章があったように思います.つまり,言語は閉じた有限のシステムを作っている.コンピュータはこのシステムから出られない(つまり,プログラミング言語で記述された通りのことしかできない).しかし,人間は,パラドクスなどを使って言語システムから脱出できる.禅の公案が矛盾に満ちているように聞こえるのも,言語を用いて,その言語システム自体からの脱出をはかっているからだ・・・というような議論だったと思います(以上,本が手元にありませんので記憶で書いています.ホッフスタッターのもう一冊の本だったかもしれません).
 因みに,コンピュータもプログラムに矛盾などのバグがあれば,プログラムが定めたシステムから脱出しますね.ただし,その結果は暴走かフリーズですが・・・.

コメント

正信偈を拝読していると、ある一文字が気になることがあります。
以前は 必 という字に気をとられたことがありますが、今日は
唯 という字が気になり、改めて目で探してみると 4回登場して
いることに気がつきました、しかも最後の最後に念を押すように
唯可信斯高僧説
と、ただよくつねに み名となえ このみさとしをしんずべし!
そうでした そうでした

(あれ,さっきお返事を書いたつもりが消えている・・・?)

「唯」は・・・.「極重悪人唯称仏」,「唯説弥陀本願海」はすぐ出てきたけど,もう一つが出てこない・・・(^^;;;).「唯能常称如来号」でしたか.・・・も一つ見つけた.「唯明浄土可通入」.

以前,破旬さんに教えていただいた「阿弥陀さまは・・・照らすだけ」という言葉も,「唯」を含んでいる感じですね.真宗には「唯」が似合うのかな・・・で思い出したのですが,「只管打坐」という言葉がありましたね.「ただ坐れ」という意味だと思いますが,真宗では「只」の方はあまり目にしないような気がします.「唯」と「只」,使い分けがあるのでしょうか.

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