入口小目次> この頁
     口あい一覧  事項索引 
[才市] 耳の門の あくときは
旧ブログ 2011年5月28日 (土)

こころの門は弥陀の門
耳の門の あくときは
一念帰命なむあみだぶつ
(楠, 三, p.193)

 ヘレン・ケラーにこんな質問をした人がいるそうです.
 「もし神様があなたの目と耳と口と,どれか一つを正常にしてくれるとするならば,あなたはどれを願うか」と.
 ヘレン・ケラーの答えは,「耳」.なぜなら「心に光が入るのは耳からだから」.

 西洋の宗教画に,薄暗闇に斜め上から光がほのかに差し込む構図がときどきありますが,なにかそんな絵を連想させる美しい言葉ですね.
 因みに,ヘレン・ケラーにはこんな言葉もあるそうです.

心の耳が聞こえておれば不幸なことはありません.

【補足】
 楠, 三, p.193 :楠恭『定本 妙好人才市の歌 全』の三.ノート7の85番.

 「心に光が入るのは耳からだから」: この話は龍谷大学の鍋島直樹先生から聞かせていただきました.こちらのページに,その鍋島先生が聞き手を務められた公開講座『中村久子女史と歎異抄―無碍の道』(講師:三島多聞, 2008年 龍大)の記録があり,三島師から,この話が紹介されています.

 「こころの耳が聞こえておれば」: ヘレン・ケラーが来日した折,岩手県立盛岡視覚支援学校(旧岩手県立盲学校・当時は盲唖学校)で記念植樹をした際に述べた言葉だそうです.なお,断片的な引用をしましたので,若干,元の文意を曲げてしまったかもしれません.元の言葉は次の通りです.

目が見えなくても耳が聞こえなくても,心の目が開いており,心の耳が聞こえておれば不幸なことはありません。皆さん手をつないで幸せになってください.

こちらから孫引きしました.

コメント

私もこのヘレン・ケラ-と中村久子さんのお話はどこかで聞いたことがあります。その時は親鸞聖人の和讃「光明てらしてたえざれば 不断光仏となずけたり 聞光力のゆえなれば 心不断にて往生す」を併せて味わったような気がします。光を聞くとは面白い表現ですね、光を失ったヘレンケラ-は聞光力を感得されていたのでしょう。
昨日終了した 親鸞聖人750回御遠忌法要(大派)では 中村久子展が
開催されていました。彼女の場合は手足を失っていますので「こころの手足」とよく言われていたようです。失った機能の代替を阿弥陀様はちゃんと与えて下さっているようです。

そうか,聞光力ですね.思い至りませんでした.ありがとうございました.

入口小目次> この頁
     口あい一覧  事項索引